キリスト・救済論4
受肉・二性一人格
はじめに・・・教理の捉え方
先在のキリストは時満ちて、人となって我々の間に住まわれた。これを受肉incarnationという。キリストの受肉とは、どういう事態であり、私たちにとってどういう益があるのだろうか?
1.カルケドン信条にいたる、古代のキリスト論論争
(1)教理史概観
概括すれば、古代カトリック教会の功績は、神はどういうお方か、キリストはどういうお方かについての基本的真理を明らかにしたことである。前者はニカヤ・コンスタンティノポリス信条(381年)において三位一体論として定式化され、後者はカルケドン信条(451年)において二性一人格として定式化された。16世紀の宗教改革者たちは、ニカヤ・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条の成果は、そのまま継承しているから、プロテスタント教会はローマ教会・東方正教会とこの点において共通している。宗教改革の成果は救済論にある。異教・異端との戦いに直面しなければならない教会にとってこうした定式化は重要で有効なことである。エペソ書は言う。
「4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:11-15)
教理の一致は教会の背骨である。諸教理doctrinesのうちで、この教理をはずしたら異端であるとされるものは特に教義dogmaと呼ばれる。 日本の教会が直面している今日的課題としては、エホバの証人はキリストを被造物とするものであり、アレイオス派の異端である。ちなみに、モルモン教は多神教であり、統一教会は二元論ないし汎神論である。受肉を否定するニューエイジのキリスト観はグノーシス主義。
(2)新約聖書が啓示するイエスについての基本的事実
新約聖書において、イエスの4つの基本的事実が啓示されている。
① イエスは人性と神性との両方をもつ唯一の人格者である。
マルコ4:35-41を開いてみよう。ガリラヤ湖の舟でイエスは疲れてぐっすりと眠っておられた点には人性が現れている。神は「まどろむこともなく、眠ることもない」お方である(詩篇121:4)。だが、弟子たちにたたき起こされて荒れ狂う風と湖に「黙れ、静まれ」と命じてこれを鎮めた点には、被造物を支配する神性が現れている。神の国(支配)の現れである。弟子たちは、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と恐怖に包まれた。それは、聖なるお方に直面した恐怖である。
②イエスは人であるが罪なきお方である。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(1ペテロ2:22)と、主イエスと三年間寝食をともにしたシモン・ペテロが証言している。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)
③主イエスは礼拝の対象である。
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。」(マタイ28:16,17)
これらは人間の理屈からいうと不可解な面があるのだが、聖書における明白な啓示であり初代教会以来の基本的な信仰である。
④イエスは最初からご自分の神性を自覚しておられた。
自由主義神学は、イエスが徐々にキリストとしての意識に目覚めていったというふうに考える。あるいは、初代教会がイエスを後に神格化したにすぎないという。
12歳のイエスは、神が自分の実父であると認識しておられた。
「するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』」ルカ2:49)。
また、およそ30歳になられて、宣教の最初から、イエスはご自分が神としての権威を持つことを自覚しておられたから、中風の男に「子よ。あなたの罪は赦されました。」(マルコ2:5)と宣言した。イエスは自分が自然界に対する主権を持つ者であると自覚しておられたから、風をしかりつけ、湖に「黙れ」と命じた(マルコ4:39)。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。・・・わたしを見た者は父を見たのです。」(ヨハネ14:6,9)と言われた。
N.T.ライトは、イエスが、その生涯、神としての自己意識をもっていたということを次のように否定している。
「この点でも多くのクリスチャンは間違った方向に進んだ。イエスがその生涯の間、自分が『神である』ことに『気づいていた』というのである。その意味することは、自分についてのその知識を、どういうわけか瞬時に、ほとんど普通に自覚していた、というものである。」
だが、間違っているのはライトである。イエスがはじめから神の御子であると自覚していたことは、福音書を読めば明々白々で、疑う余地がない。
イエスが徐々に神の御子意識に目覚めていったというのでは、まるで、ゴータマ・シッダールタがある日ブッダ(覚者)になったみたいである。もし福音書の記述は記者の単なる作り話だというのがライトの立場であれば、話はまったく別で、論じる意味すらないが、彼は聖書を重んじる立場である。リベラリズムが支配的な聖書学という土俵の上に上り続けているうち、その影響を受けてしまうのだろうか。
もしイエスがただの人間であったとすれば、自由主義者が言うように道徳の教師にはなりえない。その言動があまりにも傲慢だから。自分が神の権威をもって人の罪を赦し、神の権威をもって万物を従えることができ、自分だけが父なる神への道であるというのである。もし、イエスが実際には神の御子、神と等しい方でなかったとするならば、ユダヤ最高議会サンヘドリンが、最終的にイエスを、自分を神と等しくしたというかどで死刑とさだめたのは正しかった。
さらに言うなら、イエスの発言は人間としての傲慢の域を超えてしまっている。通常、このような発言をする人というのは、精神に疾患をきたしていると判断される。古代ユダヤ社会では「あなたは悪霊にとりつかれている」(ヨハネ8:48)と判断された。だが精神に疾患をきたして自分が神に等しい者だというたぐいの妄想に取りつかれているような人の場合には、それにともなって、知情意に障害が生じる。知性についていえば、思考の一貫性がなくなり、感情について言えば、喜怒哀楽が平板化し、意志についていえば、何をするにも意欲がなくなるといった症状が伴う。だが、イエスの生涯を見れば明らかなように、イエスの知性はいつも冴えていて論争を挑んだ律法学者たちを退散させ、その感情生活は豊かであり、生涯意欲に満ち活発であられた。心開いて身近にイエスに接した人たちは、そこに深い愛と憐れみと正義と真実とを経験したのである。イエスという方は、人としてこの上なく正常な精神生活を送っておられて、かつ、自分を神と等しくしたのである。イエスという方は、まことに比類なきお方であった。まことに神が人性をまとわれたお方であった。
(2)ユダヤ主義とグノーシス主義の異端説
イエスが誰であるのかという問いに対する異論は、大きく分類すれば、伝統的ユダヤ主義からの異説と、グノーシス主義というギリシャ的二元論からの異説である。
ユダヤ主義的異端は、唯一神教の理屈によるものであり、イエスの神性を割り引いて、イエスは聖霊を注がれた預言者とするものである。2世紀のエビオン派はユダヤ人キリスト者の一部で、マタイ福音書だけを用い、使徒パウロを律法に背く者として退ける。彼らは、イエスは洗礼のとき、または、復活のとき、または、昇天のとき、神の養子になったとした。アロギ派(ヨハネ福音書を否定しロゴスを否定)、ナザレ派も似たようにキリストの神性を否定する。
グノーシス主義の異端は、精神は善であり肉体(物質)は悪とするギリシャ的二元論に立つ。彼らはキリストを父なる神と同一の精神だと考えて、キリストの神性を強調し、人性を否定する。
仮現説docetism論者は、イエスの肉体は幻に過ぎず、その苦しみと死も幻影にすぎないとする。「もし彼が苦しみを受けられたのなら彼は神ではなく、神であったのなら苦しみを受けられるはずはなかった。」とする説。グノーシス主義者にとって、苦しみと死は肉体にともなう悪であるから。
憑依説:ケリントスは「イエスは処女から生まれたのではなく、他の人間のように、ヨセフとマリヤとの息子であったが、ただ、義と悟りと知恵において他のすべての人々に勝っていた、とも教えた。そうして、バプテスマの後で、キリストが鳩のかたちで万物の上にある権天使から下り、そこでキリストが知られざる父神を啓示し、徳行を行ったのであるが、終わりにはイエスを残してキリストは飛び去り、イエスは苦しみを受け復活したが、キリストは元来霊的存在なのであるから、苦しむことのできないものとして留まった、というのである。」(エイレナイオス『異端駁論』1:26:1)
現代のニューエイジムーブメントでもグノーシス主義と同じことを教える。出所が同じ悪魔だからであろう。日本でいえば、幸福の科学のたぐい。
「4:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。 4:2 人となって来た(en sarki)イエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。 4:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(1ヨハネ4:1-3)
(3)カルケドン会議までのキリスト論論争
エイレナイオスがいうように、「キリストは、人であるゆえに人の罪を担うことができ、キリストが神であるゆえに贖罪の能力を持っている。」では、「イエス・キリストの中において、どのように神性と人性が一つとされているか?」というのが次の課題だった。
東方教会には、人間を救うために人となられたその人性を強調するアンティオキア学派、神の真理を教える教師として神性を強調するアレクサンドリア学派二つの潮流があった。両派ともにイエスは神であり人であると信じていたが、「どのように」イエスは神であり人であるのかという点が問題だった。もっとも、西方教会では、すでにテルトゥリアヌスの「キリストのうちにおいて、二つの本性が一つのペルソナに結合されている」という定式で解決済みだった。
①アポリナリオス説:アレクサンドリア学派「人間の肉体に神のロゴスが宿った」
→人性が不十分
アポリナリオスは、「キリストは人間の精神を持たない人間であると信じ」「キリストが二つの完全な性質を持つことはできなかった」と主張する。イエス・キリストにおいてロゴスが人間の理性的精神に取って代わったと考える。言い換えると、人間にとって知性もしくは理性的精神が果たす役割は、イエスのうちにおいては神のロゴスが果たしている。つまり、人間の肉体に神の精神が宿っているということ。
これはキリストの神性を強調するアレクサンドリア学派にとっては問題と感じられなかったが、キリストの人性を強調するアンティオキア学派にとってはまったく不十分だった。というのは、人間の肉体に神の精神が宿っていても、それはほんとうの人間ではなく、したがって、人間の救い主にはなりえないからである。
アポリナリオスの主張は、362年アレクサンドリア監督区会議、最終的に381年コンスタンティノポリス公会議で排斥された。
②「ネストリオス主義」(二性二人格説)は誤解・捏造された異端であり、ネストリオス自身と景教は正統的アンテオケ学派である。
詳細は、ジョン・M・L・ヤング『徒歩で中国へ』(イーグレープ2010年)の5章、6章を参照。
a.異端「ネストリオス主義」=「二性二人格」説は伝統的誤解である
コンスタンティノポリス総主教ネストリオスはアンテオケ学派だった。彼は、マリヤを「テオトコス(神を生んだ人)」と呼ぶことを拒否し、「キリストトコス(キリストを生んだ人)」と呼ぶべきだと主張した。この主張の意味は、マリヤではなくイエスを問題としたのである。マリヤを「キリストを生んだ人」と呼ぶべきだというのは、イエスの人性を強調するためであった。逆にテオトコスはイエスの神性の強調であり、アレクサンドリア学派では一般的だった。
アレクサンドリアのキュリロスは、「ネストリオスは、イエスの内には「神と人という二つの本性と二つの人格が存在すると主張した」と主張し、431年エペソ公会議でネストリオスは異端とされた。
ところが、対抗会議をネストリオスの支持者ヨアンネスが開き、キュリロスに異端宣告をした。そこで皇帝テオドシウス二世が介入し、433年「一致定式」でキュリロスとヨアンネスが合意したものの、ネストリオスは異端とされて追放された。
●キュリロスの批判した「ネストリオス主義」=二性二人格説
「聖処女マリヤはキリストの一つの性質の母にすぎず、キリストの人格全体の母ではない」、「マリヤは神の言葉である方を産んだのではなく、人間イエスを産んだ。この人間イエスは神の言葉を容れる神殿で、王を容れる生きた王衣であった。」「受肉した神は苦しまず、死なず、死者の中から引き起こされた。そのお方の中に受肉しておられた・・・キリストにはなるほど二つの性質があり、一人の人格がある。しかしよく注意するとこの二つの性質はあたかも二つの人格であるかのごとく語られている。そしてキリストに関する聖書の言葉は、ある部分は人間のこと、他の部分は神としてのキリストのことというふうに分けられている。」とネストリオスは教えているというのが、キュリロスによるネストリオス非難の内容である。
そのまとめは以下の通り。
エペソ会議(431年)で異端とされた「ネストリオス主義」
1.ネストリオスはキリストの神性と人性とを区別しようとしてイエス・キリストの中に二人の人格が存在するとしている。
2.マリヤをテオトコスと呼ぶことを拒否している。
3.受難し、十字架につけられたのは人間イエスであって、ロゴスではないと主張している。
4.ロゴスがマリヤを通して肉体を与えられ、人となったことを拒否している。
5.イエス・キリストにおいて神・人の二性の合一は外部的なつながりによる(道徳的一致である)と主張している。
6.二人の神の子がいる。一人はもともと神で人間を来た。もう一人は人の子で、神のものとなり用いられた。
b.真相:ネストリオスと景教はアンテオケ型正統キリスト教である
騒動終結後、ネストリオスは追われる形でエジプトへ亡命。ネストリオスに従う人々は波斯ルシャで別に教会を建てた。これが唐の時代の中国にわたって景教と呼ばれる。その流れを引くのは、アッシリア東方教会Holy Apostolic Catholic Assyrian Church of the Eastが継承している。こちら参照
ネストリオスはエジプトの修道院で隠遁生活を送ったが、死の直前にあたる450年には『ダマスコのヘラクレイデス論』を著した。この書は、19世紀末に発見され、1910年 に刊行されて、ネストリオス研究に変化をもたらした。近年の研究によれば、実は、ネストリオスを異端と認定したのはキュリロスと教会のまちがいであった。彼らが非難し否定した「ネストリオス主義」という異端の教えは、ネストリオス自身の教えではなかったし、彼が設立して中国にまで伝わった景教の教えでもない。ネストリオス自身と景教のキリスト教は、二性一人格に立つアンテオケ型の正統的なキリスト教であった。
証拠は下のとおり。
☆ネストリオス自身の教え=景教=正統的アンテオケ学派=二性一人格
ネストリオスは「マリヤにテオトコスという呼称を使用するのは罪ではない。なぜなら神の言葉である福音は『キリストは生まれ給うた』と言っているからである。」と述べている。「もしあなたが素朴な信仰からテオトコスというなら、それをとやかく言ったりはしない」、「だが決して処女マリヤを神格化して女神にしてしまわぬように」と添えている。
ネストリオスが弁明書「バザール」で述べていること
1.キリストにおいて人性と神性の二つが「自然な結合」を遂げていると考えるのは正しくない。もしそうだとすれば、それら二つの性質は、それら以外の創造者がすでにいて、その結合を生み出したということになる。
2.受肉は神性を人性に転換して起こるもの、または逆に人性を神性に転換して起こるものであるとする説に反対する。また受肉とはそれにより第三の何らかの存在が生じることであるという思想も否定した。
3.神は聖徒のうちにも宿り給うが、キリストのうちの神性もそのようなものである、という思想を拒否した。
4.キリストの人性、または神性のいずれかをフィクションであるとし、また幻想上のことがらであり事実であるとする説を拒否した。
5.受肉はキリストの神性に何らの変化も及ぼさないとした。また『神的なロゴスであるお方」は不変であるので苦難にあわれなかったとした。
6.キリストにある二性の合一が「子としての神」のうちに何らかの二重性を生じるという思想は拒否した。
7.キリストにおいて神性と人性が結合したのは両性の自発的な意志によるものである(訳注・何らかの外部の意思や法則にしたがってのではない)と主張した。
8.神・人の二性の結合の力は人性と神性それぞれの人格の中にあり、これらが合一して受肉して、キリストの一つの人格となったと主張した。
9.以上の8点がみたされてこそ真に受肉が成立するのであり、贖いの信仰が可能となり、また教会の礼典のための理論的支柱となるのである。
ヤングによれば、「彼(ネストリウス)は常に、キリストの中に二つの人格があるという思想を拒絶している。一人のイエス・キリストという人格の中に神人二つの本質が混合や混乱なしに結合されているのであり、この結合はいかなる愛や親しさによる倫理的結合よりも親近性が強く、その結合の親密さのために神・人どちらの本性の属性であってもイエス・キリストの人格のものであるといえる。それがネストリウスの思想である。ネストリウス本人はいわゆる『ネストリウス主義者』ではないことが明らかであり、彼の反対者が言っているような人間でないことも明白である。」
③エウテュケス・・・単性論と呼ばれる。神性偏重:極端なアレクサンドリア学派=「キリスト単性論」
「主は神性と人性の結合以前には二性を持っておられたことを認めますが、結合の後ではただ一つの性質を持ちたもうたと信じます。・・・わたしは尊敬すべきキュリリウス、ならびに聖なる教父たちと聖なるアタナシウスの教えに従うものであります。彼らは、結合の以前には二性について語っておりますが、しかし結合と受肉の後では、二性でなくして一性について語っております。」(コンスタンチノポリス会議、会期第7、ベッテンソンp87)
キリストは「父と同一の本質」ではあるが、「我々と同じ本質ではない」。また、救い主は「結合の前には二つの本性に由来したが、結合の後は一つの本性をもった」とも。
キリストの神性のみを主張しており、キリストの人性を否定しているので、グノーシスのドケティズムの主張に極めて近い。コンスタンティノポリス主教フラウィアノスはエウテュケスを異端宣告。エウテュケスはローマ監督レオに上訴するも、レオはフラウィアノスを支持。
④カルケドン会議451年(後に第四回公会議と呼ばれる)=二性一人格
カルケドン会議は、「キリストのうちに二つの本性が一つの人格となって存在している」いわゆる二性一人格というテルトゥリアヌスの定式を確認した。
カルケドン会議は、極端なアレクサンドリア学派と極端なアンティオキア学派を退けた。エウテュケス主義(単性論)は明白に拒絶。また、先に開かれた325年のニカイア、381年のコンスタンティノポリス、431年のエペソ公会議の決定を再確認した。
ところが、シリア正教、コプト正教、エチオピア正教、アルメニア正教はカルケドン会議の結果を拒否した。単性論として排斥されたが、彼ら自身は単性論という呼称を拒否して、「非カルケドン派」と呼ぶ。
カルケドン信条(451年)
されば、聖なる教父等に従い、一同声を合わせ、人々に教えて、げにかの同一なる御子我らの主イエス・キリストこそ、神性に於いて完全に在し人性に於いてもまた完全に在し給うことを、告白せしむ。主は真実に神にいまし、 真実に人でありたまい、人間の魂と肉をとり、 その神性によれば御父と同質、人性によれば我らと同質にして、罪を他にしては、全ての事に於いて我らと等し。神性によれば、万世の前に御父より生れ、人性によれば、この末の世に我らのため、また我らの救いのため、神の母なる処女マリヤより生れ給えり。同一なるキリスト、御子、主、独り子は二つの性より成り、そは混淆せられず、変更せられず、分割せられず、分離せられずして承認せらるるべきなり。されば、この二つの性の区別は、一つとなりしことによりて何等除去さるることなく、却って各々の特性は保有せられ、一つの人格と一つの存在とに合体し、二つの人格に分離せられず、分割せられずして、同一の御子、独り子、御言なる神、主なるイエス・キリストなり。げに預言者等が、昔より、彼につきて宣べ、また主イエス・キリスト自ら我等に教え給い、聖なる教父等の信条が我等に伝えたるが如し。(東京基督教研究所訳)
2.近現代のリベラリズムのキリストの人的単性論化
近現代は啓蒙主義的理性(反キリスト教的・自然主義・無神論的理性)によって、新約聖書の啓示から離れ、キリストの二性論が批判され、単性論に陥っている。古代のエウテュケスは神性の単性論だが、近代は人性の単性論である。
17世紀、ソッツィーニは、合理主義的観点から、キリストの代理の受苦と代理の死の教理を攻撃し、三位一体、贖罪、キリストの神性を批判し、二性一人格を否定。しかし、ソッツィーニ主義者は、処女降誕による超自然的受胎は否定しない。ソッツィーニ主義者は、救い主を、ナザレのイエスという歴史的人間とした。
18世紀啓蒙主義は、理神論をもってキリスト教に影響をあたえる。超自然の自然への介入を否定する。19世紀には、啓蒙主義の味気なさをロマン主義が克服しようとした。シュライエルマッハー (Schleiermacher)は、「絶対依存の感情」が宗教の本質であり、信条・教義を軽んじた。キリストの二性一人格は不毛の教義とした。キリストは、ただの人だが神意識の絶えざる力強さに特徴があったという。キリストは信仰と礼拝の対象でなく、もっと近い存在になる。要するに、超人的愛の人。
リッチュルは、神学における形而上学の影響に激しく反対して、キリストにおける歴史的啓示にすべての強調点を置いて、キリストの二性一人格の教理を非難した。門下の教理史家ハルナック(Harnack)は、キリスト論的教義の歴史的起源に関心をもち、哲学的影響がキリスト論的教義を決定したとして、二性一人格論を無意味とした。神学のロゴス・キリスト論は、異教の形而上学的侵入だという。
ケノーシス主義はキリストは「自分を無にして」(ピリピ2:7)を、キリストは神性を放棄して人性を取ったと解釈した。
詳細は現代神学に譲るが、要するに、近代の啓蒙主義・自由主義神学では、キリストは人間化された。