ディスペンセーション主義は、契約神学に対して「置換神学」という誤ったレッテルを貼って批判するのだが、これはストローマン論法である。つまり、相手の主張を意図的にゆがめて、それを攻撃しているにすぎない。
 契約神学は、ローマ書が「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている」(11:17)というように、イスラエルと新約の教会を置き換えてはいない。
 契約神学は、イスラエルの一部が折られて、イスラエルという台木に新約の教会が接ぎ木されたのだと教える。ではイスラエルの一部の枝が折られた理由は何かと言えば、「彼らは不信仰によって折られた」(11:20)とある。その不信仰とは、彼らが神が遣わされたメシアであるイエスを拒否したことを意味する。
 ところで、現在、イスラエル共和国は国家としても大多数の国民としても、イエスをメシアとして受け入れていない。イスラエル国民の多くを占めるユダヤ人は、ユダヤ教の信仰に立っている。ユダヤ教では、メシアはまだ来ていないと考え、イエス・キリストは預言者でもメシアでもないと考えている。(例外として、イエスがメシアであることを信じているのはごくわずかなメシアニック・ジュ―はいるけれども。)したがって、ローマ書11章17-20節によれば、現在のイスラエル共和国は、残念ながら、今も神によって折られ取り除かれた枝の状態のままである。
 新約の教会はユダヤ民族を排除しない。新約の教会は、ユダヤ民族と他のあらゆる民族を含む神の民である。そもそも、パウロもペテロもヨハネもイエス様ご自身もユダヤ人なのであるから当然のことである。

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:27,28)