2022年7月29日 神戸神学館

ΑでありΩであるキリスト

水草修治

日本同盟基督教団 苫小牧福音教会牧師

北海道聖書学院教師

アウトライン

はじめに

Ⅰ 「神のかたち」であるキリスト

 1 旧約聖書のキリスト

 2 ギリシャ教父創世記1章26、27節の「神のかたち」を御子であると理解した

 3 アウグスティヌス以降

  (1)アウグスティヌスによる「神のかたち」理解の変化

  (2)近代聖書学

 4 改めて、コロサイ1章15節を文脈の中で読むならば・・・

 5 「神のかたち」開示のプロセス

 ΑでありΩであるキリスト

 1 キリストを契約神学的展望の視点とする

  (1)第一の主題:「インマヌエル」

  (2)第二の主題:キリストは王として悪魔を倒し、神の王国を相続する

  (3)第三の主題:キリストは祭司として、自らを犠牲として捧げる

 2 キリストを組織神学的展望の視点とする

 

はじめに

 復活の日、エマオ途上で主イエスは二人の弟子に「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされ」(ルカ24:27)た。主イエスがパンを裂いて後、姿を消したとき、弟子たちは「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(同24:32)と語り合った。主の聖書の解き明かしはどういう内容だったのだろうか。また原始教会は聖書全体をキリストを表す書として、どのように受容していたのだろうか。

 また、入門者からこんなことを言われたことがある。先週の学びで神様が万物の創造主であるというのはわかりました。ところでイエス様は2000年前に生まれたんですか。それじゃあ、紀元前6世紀に生まれたお釈迦さんと仏教のほうが古いんですね。」これに応えて、「いや、イエス様は神の御子なので、実は、永遠の昔、この世界ができる前から生きていらっしゃるんですよ。」と言うと、入門者はでは先週まで学んだ創造主、イスラエルの歴史を導いてきた神には、実は、息子がいたというわけですか。それがひょっこり二千年前になって、この世に来られた、と。」と言って、納得行かない顔をしている。創造主がいるとしても、その御子が私たちの歴史の中に人として来られたということが受け入れられないのである。創造と救済が結びつかないのである。

カルヴァンは「創造主である神を知ること」と「贖い主である神を知ること」が神を知るうえで肝心なことであると言った。

 創造と救済を結びつけるカギは旧約におけるキリスト理解である。さらに創造と救済だけでなく、主イエスは聖書を一貫するご自身のことを教えられたとエマオ途上の記事にある。この講義の前半で、私たちは創世記1章の「神のかたち」理解から始めて、キリストご自身が創造と救済を結ぶカギであることを明らかにし、後半で簡潔にではあるが神のご計画全体に視野を拡げたい。 

 

 もう一点、あらかじめ考えておくべきことがある。「神は父子聖霊の三位一体なるお方であるのだから、私たちは父と子と聖霊をバランスよく知るべきであって、キリスト論的に集中して神を知るということはアンバランスなことになるのではないか」という懸念についてである。実にもっともな懸念であるのだが、聖書は次のように主張している。

 「いまだかつていまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 また、主イエスはおっしゃった。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネ14:6,7)

 神は父子聖霊であられるのに、どうして私たちは父を直接に知ることはできないのだろうか。それは父が「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。」(1テモテ6:16)だからである。有限な私たちがキリストを介することなく直接に無限の神を知ろうとしても、生ける真の神に出会うことはできないのである。

 過去、キリストを介することなく神を知ろうとした哲学者たちがいて、いくつかの方法で神の存在証明をしたことがある。例えば、すべてのものは原因と結果から成っているから、結果から原因へとさかのぼっていくならば、第一原因にたどり着くことになる。その第一原因こそ神であるという証明がある。また、私たちのからだやこの世界を見回すならば、この世界は目的にかなった姿をしていて、到底偶然の産物ではない。その目的のためにこれを造ったデザイナーが実在することは明白である。そのデザイナーこそ神であるという証明がある。また、存在する物は、観念の中にのみ存在するペガサスのようなものと、観念と現実との両方に存在するたとえばネコのようなものがある。ところで、観念の中にのみ存在する物と、観念と現実の両方に存在する物とどちらが偉大であるかというと、後者の方が偉大である。神はそれ以上に偉大なもののない存在であるから、神は観念の中だけでなく現実に存在する。

 真の生ける神に出会った聖徒たちは、燃える柴の個所のモーセのように恐れおののき、神殿で主の栄光に降れたイザヤのようにひれ伏して絶望し、ヨハネのように死んだ者のようになるものである。けれども、上述したような神の存在証明のような神知識を得ても、人は生ける神に出会うことはできない。パスカルに言わせれば、神の存在証明をした哲学者たちは、神が崇められることよりも、神を知り得た自分が崇められることを望んだのである。キリストを抜きにして神を知ろうとする企てによっては、生ける神に出会うことはできない。

 またキリストを抜きにして聖霊を知ろうとする人々もまた、真の神を知ることはできない。初代教会の時代、人として来られたイエスを否定して、霊によって神を体験できるという人々がいた。しかし、人となられた神であるキリストを抜きにして霊によって神を知ろうとした人々は、自らが悪霊に惑わされていることがわからなかったである。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」(1ヨハネ4:1‐3)

 私たちは父子聖霊の三位一体なる神を知ることを求めているのであるが、神がご自身を知らせる唯一の道として私たちに用意してくださったのは第二位格である御子なのである。私たちが御子を知るときにこそ、御父と御霊を正しく知るようになる。御子を通して御父と出会う人は、そういう知識を得たことを誇って空虚な傲慢に膨れ上がるのでなく、御父の前にひれ伏して礼拝する者となり、御霊に満たされて神にすべての栄光をお返しして賛美する者となるのである。

 

Ⅰ 「神のかたち」であるキリスト

 

1 旧約聖書のキリスト

旧約聖書はさまざまなかたちでキリストのことを指し示している。旧約聖書には創世記3章15節の「女の子孫」に始まり、イザヤ書53章やいくつかのメシヤ詩篇をはじめとして、キリスト預言がある。

またレビ記の贖罪儀礼は、キリストが自らを完全ないけにえとして一回かぎりささげた贖罪の本体であるキリストの犠牲を指差す影であった(ヘブル10:1-10参照)。

預言、贖罪儀礼の予表だけでなく、初代教会の聖徒たちは聖霊に導かれて旧約聖書の中に「先在のキリスト」「受肉以前のロゴス」を見出しているパウロは、イエス・キリストが旧約に啓示された「」(新改訳聖書で太字ヤーウェ)であるとしている。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」(ローマ10:9-13)ということばで二重括弧に引用されることばは、ヨエル書2章32節「主(ヤーウェ)の御名を呼ぶ者はみな救われる。」である。つまり、イエスを主と告白することは、ヤーウェを呼ぶことである。

またヨハネ福音書記者はイザヤが神殿で見た「万軍の主」の栄光は、イエスの栄光であったと述べている(イザヤ6:1-13,ヨハネ12:41を照合)

さらに、主イエスは、ユダヤ人に向かって、まるで昨日アブラハムに会ってきたような口調で話をし非難を受けると、彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(ヨハネ8:58)と。『わたしはある(エゴー・エイミ)』とはいうまでもなく、燃える柴のところで、主がモーセにご自身の名を明らかにされたときの表現である(出エジプト3:14参照)LXX(70人訳ギリシャ語旧約聖書)では「エゴー・エイミ・ホ・オーン」。これらはイスラエルの過去の歴史の中に出現した受肉以前のキリストである。

さらに重要なのは、世界が造られる以前に御子が父とともに生きておられたという記述である。主イエスは最後の晩餐の席上で、次のように祈られた。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(ヨハネ17:5 傍点筆者)「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」(ヨハネ17:24 傍点筆者)主イエスは、万物を創造する以前に父なる神と栄光を共有し、父なる神との愛の交わりのうちに生きておられた。

ヨハネはおそらく上述の主イエスの祈りを思い浮かべつつ、御子の永遠性と創造主としての働きをその冒頭で次のように記述したのであろう「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(ヨハネ1:1-3)

 ほかにも新約聖書記者たちは、キリストが万物の創造以前からいます「の御姿」、「神のかたち」、「神の栄光の輝き」、「神の本質の完全な現われ」であると述べている。

「キリストは神の御姿(モルフェー)である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」(ピリピ2:6)

「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたち(エイコーン)であるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(2コリント4:4)

「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ・・・」(へブル1:2,3)

今回、特に取上げたいのがコロサイ書1章15節である。パウロは言う。「御子は見えない神のかたち(エイコーン・トゥ・セウー)であり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 

2 ギリシャ教父創世記1章26、27節の「神のかたち」を御子であると理解した

 

ヘブル語聖書創世記1章26節では、「われわれのかたちにおいて(ベ・ツェレム・ヌー)、われわれに似せて(キ・デムーテ・ヌー)」と、ツェレムとデムートという二つの言葉が用いられている。70人訳ギリシャ語旧約聖書(以下、LXX)ではツェレムはエイコーンと訳されラテン語訳ウルガタではimagoと訳され、英語でimageと訳される。他方、デムートはギリシャ語でホモイオーシスと訳され、ウルガタではsimilitudoと訳され、英語でlikenessと訳されている翻訳者によってツェレムとデムートの日本語の訳語がバラバラで議論が混乱するので、今回のお話ではあらかじめ次のように整理して、教父の邦訳書からの引用も、この方針にしたがって改変してお話する。

ヘブル語ツェレム=希エイコーン=羅imagoimage=かたち

ヘブル語デムート=希ホモイオーシス=羅similitudolikeness=似姿

ところで「神のかたち」とは何を意味しているのだろうか?

 

(1)エイレナイオス

 2世紀のギリシャ教父エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』創世記第2章、3章を説明した12節に次のようにある

「園がそのようにきれいで優れたものであったので、神の御言葉は定期的にその中を歩いていた。御言葉は巡り歩き、人と語り合うのを常とした。これは将来起こるはずのこと、つまり御言葉がどのようにして将来人間の仲間となり、人と語り、人類のあいだに来て、人々に義を教えるようになるか、それを前もってかたどっていたのである。」12節)

 つまり、創世記2,3章に登場する主なる神は、神の御言葉であるお方、キリストであるという解釈をしている。第二位格である御子は啓示者であることからの妥当な推論である。

 さらに、ノア契約についてエイレナイオスは次のように説明している。

「・・・神は人を神のかたちとして造ったからである』そして、『かたち』とは神の子であり、人間は(その神の子の)かたちに造られたのであった。そういうわけで、『終わりの時に』(その神の子は)かたち(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために現れたのであった。」(22節)

 エイレナイオスが言っていることは、創世記1章26節、27節の「神のかたち」とは御子を指していて、アダムは御子に似せて造られたというのである。したがって、エイレナイオスによれば「人は『神のかたち』のかたち」なのである。

 その聖書的根拠はコロサイ書1章15節である。すなわち、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1章15節 新改訳第3版)である。人間は直接的な意味で「神のかたち」であるのではなく、御子が創造において、神と人間の仲介となられたという。御子は、創造論的な意味で神と人との仲介者だというのである。

さらに、エイレナイオスは、御子と聖霊を父なる神の両手に譬えて、御子を「かたち」に聖霊を「似姿」に関係づけ、神はこの両手で人間を造り、「かたち」は人間においては、肉体と魂に見出されると解釈している。他方、聖霊が与える「似姿」とは、救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味するという

このエイレナイオスの解釈には二つ理由がある。

一つは、最初の人が、サタンの誘惑に負けたことからして、完成態ではなく完成を目指す可能態であったことであるアダムは罪を犯しうる罪なき状態である。完成態は罪を犯しえない罪なき状態であると言える。

もう一つは、昇天・着座したキリストが父のもとから派遣してくださった聖霊によって人は不死のからだをもって復活して完成する約束が与えられているからである。その時、人はもはや堕落することはなく、不死の完成態となる。

 

(2)オリゲネス(185-254AD)

 オリゲネスも、『諸原理についてDe Principiis』第三巻で創世記1章26節の「かたち」と「似姿」を区別している。すなわち、神が26節で「我々の似姿のように、我々のかたちにしたがって人を造ろう」と言いながら、

27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、「似姿」については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、かたちとしての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)かたちとしての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである。」というのである。

オリゲネスもまた、創世記1章26,27節における「神のかたち」とは御子であると述べている。「では、そのかたちに似姿として人間が造られた神のかたちとして、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロサイ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブル1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハネ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハネ14:9)という方である。

オリゲネスとエイレナイオスの解釈にはそれぞれ個性があるものの、両者には3つの共通点がある。すなわち、第一に創世記1章26,27節の「神のかたち」は御子であるとすること第二に、人間は、神のかたちである御子において造られたとすること第三に、創造において人間は未完成だったが、終わりの時に究極的な完成を見る、ということである。

(もっとも、論者としては、エイレニオスが「似姿(デムート)」を聖霊と結びつけるのは推論の行き過ぎであると現時点では感じている。)

 

(3)アタナシオスほか

さらに、正統的三位一体論の確立者アタナシオスも、『言の受肉』において次のように言っている。「善なる方として〔神は〕、彼ら人間をご自分のかたちであるわれらの主イエス・キリストにあずからせ、ご自分のかたちにかたどり、似姿にかたどって彼ら〔人間〕を造られたのである。」〔11:3〕「父のかたちである、父のいとも聖なる子が、ご自分にかたどって造られた人間を新たにし、罪の赦しを通して失われたものを取り戻すために、われわれのところに来られたのである。」(14:1)

 

以上のように、ギリシャ教父たちの<創世記1章26,27節の「神のかたち」は御子つまり先在のキリストである>という理解は古代教会において一般的なものであった。Ancient Christian Commentary on Scripture、Genesisの当該箇所の注解には、アレクサンドリアのクレメンス、マリウス・ウィクトリヌスらも含めて「初期ギリシャ教父とその後ギリシャ教父のほとんどは、人間がそれに従って創造されたところの『かたち』とはキリストそのお方であると取っている。だから、人間は『神のかたちのかたち』である。」と述べている。

これは想像に属することだが、エマオ途上で、主イエスが二人の弟子たちにモーセ五書から始めたご自分にかんする解説の最初は、「人間創造における『神のかたち』とは、このわたしのことなのだよ。」ということだったのかもしれない。

 

 ギリシャ教父たちは、三位一体の神が人間を創造なさったときモデルとしたのは第二位格である御子であるという理解をしていた。このように理解すると、人間を救うために御子受肉してくださったことすんなりと理解できるであろう本来、ご自分をモデルとしてご自分を目指す者として造られた人間が堕落してしまったので、御子は人間を回復するために人となってきてくださったのである。

 また、キリストにあって救いにあずかった私たちの人生の目標が「キリストに似せられていくこと」であり、それが自由への道であることも理解できるだろう人がもともとキリストをモデルとして造られたとすれば、救われることとは本来の人間の生き方に立ち戻ることであり、自由への道であることがわかる。飛ぶために造られた鳥にとって飛ぶことが自由であるように、本来キリストに似たものとして造られた人間がキリストに倣うことは自由である。こうして、旧約と新約、創造論と救済論とが、キリストにあって筋を通して理解することができる。

 

3 アウグスティヌス以降

 

(1)アウグスティヌスによる「神のかたち」理解の変化

教会の「神のかたち」理解に大きな変化をもたらしたのは、西方教会最大の教父アウグスティヌス(354-430AD)である。彼は、「御父が、御子をモデルとして人間を造った」というコロサイ書1章15節の釈義に基づくエイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスたちの創世記1章26、27節の解釈を批判して、「もし御父が人間を御子のかたちによって創られ、したがって人間は御父のかたちではなく御子のかたちであるなら、御子は御父に似ていないことになる」と主張した。そして、神が「我々のかたちにおいて」と言われているゆえに、人は一つの位格ではなく三位一体のかたちに従って創造されたということを強調する。アウグスティヌスの懸念は、もし神が、御子において人間を創造したという理解であると、御子の神性が割引されて、御子は父より一段下の存在であるという「従属説」に陥るのではないかということであった。アウグスティヌスは「キリストには存在しないときがあった」とキリストの永遠性を否定するアリウス派を意識していたのである。

アウグスティヌスは、『三位一体論』において、「神のかたち」として造られた人間の心には「精神と知と愛」とか、「記憶と知解と意思」に三位一体があるという奇妙な議論を展開して、三位一体を理解しようとした。しかし、その企てが成功したとは思えない。そもそも、聖三位一体における父と子と聖霊はそれぞれ人格であって、人間の精神活動の三つの機能のようなものではない。御子は、天の父に向かって祈り、天の父は御子に愛のことばをかけ、また、御子は「もうひとりの助け主」として聖霊を父のもとから派遣なさったことからわかるように、三つの位格はそれぞれが知情意を備えた人格であって、父と御子は聖霊にある愛の交わりに生きておられる。

教会史家J・ペリカンが「少なくとも使徒以来、キリスト教史の中では、その教説によって千年もの間支配的であった人物は、アウグスティヌス以外にはない。」と言うように、アウグスティヌスの権威その後の中世・近世にわたって絶大であったので、御子が人間創造における「神のかたち」であるという古代教会の聖書理解は、その後、長らく教会史の中で封じられ、あるいは忘却された観がある。プロテスタント宗教改革者たちは、「聖書のみ」という原理に立つことによって、伝統に盲目的に従うことをやめたが、それでもアウグスティヌスの影響は絶大だった。近現代のチャールズ・ホッジ、ルイス・ベルコフ、ヘルマン・バーヴィンク、ウェイン・グルデムら改革派、バプテストのヘンリー・シーセン、ミラード・エリクソンらの組織神学書では「神のかたち」が御子であるというギリシャ教父たちの理解には触れられてすらいない。ただ、K・バルトは、キリスト論が人間論の唯一の基礎であるとし、キリトについて顧慮しない人間論は自律的な自己理解であると批判した。それはキリストのみが真の人であるからである。だがそれは人間が創造においてキリストに似た者として造られたからという古代ギリシャ教父たちが言った意味ではなく、キリストが人間性を取られた真の人であるからである。

 

(2)近代聖書学

18世紀以降の啓蒙主義的な近代聖書学は、理性を最高の権威とすることによって、アウグスティヌスの権威ばかりか、聖書の権威からも解放されてしまった。啓蒙主義は迷信を排除する上では有効であったが、他方で実証主義的な理性を絶対化してしまった。実証主義とは、「一切の超越的な思弁を廃して、確実な認識方法の典型を実証科学のそれとし、認識を経験的事実に限る立場」(『岩波哲学小辞典』1979)である。当時の啓蒙主義思想家の多くは、理神論(デイズム)に立っていた。理神論は、神は世界を創造したあとは、一切、その世界に介入せず、世界はそれ自体の合理的な法則にしたがって営まれていると教えるから、聖書の霊感もありえないことになる

近代聖書学の父ヨハン・フィリップ・ガブラー(1753-1826)は、聖書宗教と神学を区別した。彼にとって宗教とは普通の単純な聖書の理解の仕方を意味する。神学とは高度に緻密にくみ上げられたものであった。彼から見るとルター派の聖書神学は、意図したことではなかったが、単にルター派正統主義の諸教理の確認に終わってしまっていた。彼は聖書神学を、現代の思想家の視点に影響されず、聖書各巻の記者が第一の読者に伝えようと意図したことの歴史的調査とすべきであると考えた。ガブラーはこうした聖書神学を土台として据えることによって、教義学を構築し直すことを目的としていた

聖書テクストの釈義において、現代の思想家の視点によらず、聖書記者が第一の読者に伝えようと意図したことを追求することはもちろん重要である。近現代の神学がカント、ヘーゲル、キルケゴール、ハイデガー、マルクス主義などの哲学的影響を受けてきたことには問題がある。だが、もし聖書各巻の記者が第一の読者に伝えようと意図したことを釈義の最終目的とするならば、「analogia fidei(信仰の類比)」に基づいて不明瞭な聖書箇所を他の明瞭な別の聖書記者の書いた箇所から解釈する方法は否定されることになる。それは、聖書釈義の究極の目的は、聖書全体の一人の著者である聖霊の意図を読み取ることであることを否定することを意味するであろう。ガブラー後の近代聖書学の学者たちは実証主義者であったから、彼らにとって聖書の各巻は、時と場所を隔てた多くの記者によって記されたものの集成にすぎない

こうした聖書の霊感を否定する近代聖書学にとっては、聖霊が、創世記1章26、27節の「神のかたち」に秘めておいた意味を、千年以上も後の時代に別の記者を用いてコロサイ書で開示されたというギリシャ教父たちの理解は、ナンセンスでしかない両箇所の関連を認めるとすれば、せいぜいコロサイ書記者が、創世記1章の当該箇所をそのように解釈したというのが精一杯であろう。 

 

4 改めて、コロサイ1章15節を文脈の中で読むならば・・・

 

 コロサイ書1章15‐17節に基づく、「神は人を御子をモデルとして創造した」という創世記1章26,27節の理解は、アウグスティヌスの従属説に対する警戒心によって封じられ、近代聖書学にとってはナンセンスでしかない。しかし、聖書66巻は聖霊によって啓示された神のことばであると信じるギリシャ教父たちにとっては普通の解釈であった。聖書を率直に神のことばであると信じる私たちにとってはどうだろうか。

 

「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」

                              コロサイ1:15-17

 

 二つの簡単なクイズを出したい。
問1 この箇所は創造論の文脈である。パウロが創造について論じる場合、旧約聖書のどの箇所を念頭に置いてものを言うだろうか?
 創世記1章と2章であると答えるだろう。単純明快な問いである。

問2 では、使徒パウロが創世記1章、2章を思い浮かべつつ、「神のかたち」という用語を使った場合、どの節を念頭に置いているのだろうか?

 この答えも簡単明瞭である。創世記1章26節、27節である。エイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスほかの古代ギリシャ教父たちが、パウロが創造論の文脈中で、「御子は見えない神のかたちである」(コロサイ1・15)と語るのを読んで、「ああここでいう『神のかたち』は創世記1章にある『神のかたち』を指しているのだな」と判断したのは、至極当然のことである。パウロの親しみしばしば引用するLXXの創世記1章27節の「かたち(エイコーン)」は、コロサイ書1章15節の「かたち(エイコーン)で同じである。

コロサイ書1章15節と創世記1章27節を並べて見る。

 

「神は人をご自身のかたちにおいて(ベ・ツァルメヌー)創造された。神のかたちにおいて(ベツェレム・エローヒーム)彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1・27新改訳を私見で改変した

 

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1・15、16 新改訳第三版)

 

 ただし、新改訳第三版および2017は「神のかたちとして」と訳してしまっている。「として」と訳された元の語は、ヘブル語の「べ」という前置詞である。「べ」という前置詞は普通には「において(in)」と訳されるものであって、「として」という訳語を充てることは珍しい。実際、英訳聖書のほとんどがin the image of Godと訳している。また、LXXでは、「カタ」(~にしたがって)という前置詞が用いられて、26節は Ποιήσωμεν ἄνθρωπον

κατ᾽ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾽ ὁμοίωσιν·「われわれのかたちに従って我々に似せて造ろう」である。

 前置詞「ベ」を「~として」と訳してしまえば、<人間イコール神のかたち>ということになるが、「べ」を「~において」あるいは「~にしたがって」と訳すならば、神が人間を創造する際の仲介者を想定していると読むことができる。

 

5 「神のかたち」開示のプロセス

 

 聖霊は「神のかたち」の意味を徐々に明らかにして行かれた旧約聖書において箴言8章22-31節には「知恵」と呼ばれる人格的存在が、世界が造られる以前に神のそばにいて、神のかたわらで、世界を組み立てたと記されている。預言者イザヤはメシヤを「不思議な助言者、力ある神」(イザヤ9:6)と呼んでいるが、教父エイレナイオスはこれは父のそばにいて父に助言するお方である御子を指すと解釈している

 そして、新約時代になると、「神のかたち」「知恵」「不思議な助言者、力ある神」は、御子キリストのことであるという真相が明かされる。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに、神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。」(ヨハネ1;1-3)と、また、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。」(コロサイ1:15,16)と。

 キリストが、永遠の昔から神とともにあり、神と被造物の仲介者、「神のかたち」であるという思想は、ヨハネ福音書、コロサイ書のみならず、ピリピ書、第二コリント書およびヘブル書1章3節にもある。

キリストは、神の御姿(モルフェー)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7)

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたち(エイコーン)に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたち(エイコーン)であるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(2コリント4:4)

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(へブル1:3)

天の父は、人間を創造するにあたって、ご自分と瓜二つの御子をモデルとされた。創世記1章26、27節に示唆されていたがベールを掛けられていた真理が、まず箴言8章で「知恵(ホフマー)」として霊感され、さらに時満ちて、上記のようにヨハネとパウロとへブル書の記者に霊感された。神は、御子キリストを創造の初めから、ご自身と被造物の仲立ち、創造の代行者・保持者・目的となさった。だからこそ、御子キリストは救済においても、神と人との間の唯一の仲介者となられたのである(Ⅰテモテ2:5)。キリストにあって、創造論と救済論とはひとつに結び合わされている。

 

 ΑでありΩであるキリスト

 

 創造論と救済論がキリストにあって結ばれていることを学んだ。さらに、キリストは神のご計画実行あたって、選びから完成まで仲保者としてお働きになる。神のご計画の全体を記述する方法として、歴史的順序によるものと体系的順序によるものとがある。前者は契約神学、後者は組織神学である。ここで、キリストを契約神学的展望の視点とした神の計画の概要と、キリストを組織神学的展望の視点としたごく簡潔な説明を提示しておく。

 

1 キリストを契約神学的展望の視点とする

 

 神の計画のゴールが、神がキリストによってご自分の民の父となり、民をご自分の子どもとして、神の王国を完成することであることは、旧約新約を一貫して流れる神の契約の主題と合致している

 

(1)第一の主題:「インマヌエル」

 人間は「神のかたち」である御子をモデルとして創造された。エデンの園において、御子に似た者として造られた人は被造物を治める務めが与えられ、主との親しい交わりのうちに生きることが許されていた。神との交わりこそ聖書がいう「いのち」である。だが、最初の人は「神のかたち」の完成態ではなく、善悪の知識の木の試練に勝利して完成を目指して成長するものとして造られていた。もし善悪の知識の木の実のに勝利したならば、御子が受肉して神の民の長子となり、御子に連なる人間は神の子どもとされ神の家族(民)となったはずである。

 神が御子にあって選んだ者たちをご自分の民とすることは、旧新約聖書に一貫する契約の主題、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と適っている。その内容は一言でいえば「インマヌエル(神は我らとともにいます)」である。つまりインマヌエルなるキリストが契約の主題である。

 神はアブラハム契約において「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」(創世17:7)とおっしゃった。この契約を受けて、モーセがイスラエルの代表として、シナイ山で神から受けたのがシナイ契約であった。シナイ契約においても、同じ主題が繰り返される。「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(出エジプト6:7)そして、ダビデに対して与えられた約束においては、神は次のように仰せられた。「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」(2サムエル7:14)。

 アブラハム契約・シナイ契約・ダビデ契約の、「わたしはあなたの神(父)となり、あなたはわたしの民(子)となる」という主題は、まずキリストの受肉において成就した。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)さらに、父なる神の右に着座したキリストが、神の民に聖霊を注ぎ、聖霊にあって教会を住まいとしてくださることによって、インマヌエルという主題は遂行された。

「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:21、22)

真理の御霊は「子とする御霊」でもある。御子の御霊によって、私たちは神を「アバ、父」と呼ぶことができる神の子どもとされた。御子は永遠に神の実子であられるが、私たちは信仰によって御子に結ばれることによって神の養子とされた。こうしてインマヌエル(神は我らとともにいます)という契約の主題は遂行された(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。

 最後に、キリストが新しい天と新しい地がもたらされるときに、契約は究極的な成就を見ることになる。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」(黙示録21:3)

 

(2)第二の主題:キリストは王として悪魔を倒し、神の王国を相続する

 人類の契約のかしらであるアダムが蛇(悪魔)の「食べるのによく(肉の欲)」「目に慕わしく(目の欲)」「賢くするという(虚栄)」の誘惑に敗れて、神に背いてしまい、人類は悪魔の暗闇の力(コロサイ1:13)の下に置かれるものとなってしまった。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1-3)

 悪魔はこの世を支配して、人間の目をくらましているので、人間はこの世がすべてという価値観に支配されてしまっている。「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(虚栄)は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:15‐17)悪魔はこのようにして人間をたぶらかし、自分が陥らねばならないことが定まっているゲヘナへと多くの者たちを引きずり込もうとしている。

 神は、この悪魔に対する勝利者としてのキリストを「女の子孫」として送ることを、アダムが堕落した直後に予告された。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)

 キリストは、荒野の40日の試みにおいて、第二のアダムとして、悪魔の石をパンに変えよという「肉の欲」、高い所から飛び降りてみ使いに助けてもらえという「目の欲」、悪魔を拝めば世界中の栄華はお前のものだという「虚栄心」に対する誘惑に勝利をおさめられた(マタイ4:1‐11)。またキリストは、伝道生活の中で、悪魔の手下である悪霊どもに囚われ苦しんでいる多くの人々を、その力から解放された。

 サタンは、弟子イスカリオテ・ユダの心に入り込み(ヨハネ13:27参照)、キリストに対する憎しみを募らせた。ユダはキリストを裏切り、キリストは十字架刑に処せられた。しかし、キリストは三日目によみがえり、ご自分の死をもって罪の呪いである死を滅ぼし、悪魔に対する勝利を収められて、天の父なる神の右に着座して神の王国の王となられた。悪魔と手下たちはこのキリストの十字架にある神の知恵を知らなかったのであろう(1コリント2:7,8参照)。

 

 アブラハム契約は相続の契約と呼ばれる。これには、神の民アブラハムの子孫が相続地を与えられることと、地上のすべての民族は子とされ祝福されるという約束がともなっていた。「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」(創世記17:4—8)

 復活したキリストが、弟子たちにあらゆる民族から神の子どもたちが召し出すことをお命じになったので、その相続地はカナンの地から世界へと拡張される。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。」(ローマ4:13)御子の御霊によって神を父と呼ぶ神の子どもたちは、キリストの共同相続人となって、世界を相続する。

 

 ダビデ契約は、王国の契約と呼ばれる。ダビデの子孫が主の神殿を建て、永遠の王国を確立するという内容である(2サムエル7:11-14)。この約束は、ダビデの家系に生まれたキリストが、十字架と復活の後に天の王座に着き、天地のいっさいの権威を授けられ(エペソ1:20,21)、天から聖霊を注いで神の宮である教会を建てられたことによって成就した。「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:20-22)神の王国は、福音の宣教によって世界のあらゆる民族に拡張されて行き、最終的には御子が再臨し、父なる神とともに王座に着いて、聖霊によって世界を神の子たちとともに世界を相続し統治するときに完成する(黙示録22:1‐5)。

 近年、神の国の物語として聖書全巻を把握することを企図した書物が出版されているが、それらは大筋、上に説明した契約神学の線に則っている。

 

(3)第三の主題:キリストは祭司として、自らを犠牲として捧げる

アダムにあって人類が堕落しので、「インマヌエル」つまり、「わたしはあなたの神となり、あなたは私の民となる」という約束が成就するためには罪の償いが必須条件となった。すべての人はアダムにあって罪に堕ちて霊的に無力となり、自力では決して神のもとに立ち返ることが出来ない。

そこで、御子の受肉の目的には、神の民を身代わりとなって償うという重大な務めが加えられた。信ずる者を神の民に加えるには、罪からの贖いが前提になる。近年、神の王国の物語として旧新約聖書を通覧することを推奨する人々が現われたのは良いことだが、なぜか罪とその解決について不問に付する傾向があるのは、残念である。罪の問題の解決なくして、王国の相続人となることはありえない。

その最初の約束はやはりアダムの堕落直後に与えられた。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」(創世記3:21)

 相続の契約・王国の契約が実現するためには、罪の贖いがなされることが必須条件である。その罪の贖いを明示するのは、律法の契約と呼ばれるシナイ契約である。律法には、神とともに生きる基準としての道徳律法とともに、その基準を行えない人間の罪の現実を認識させ、贖罪の犠牲の必要を教える様々な祭儀律法が含まれている。だが、祭儀律法で定められた動物犠牲は、やがて現れるキリストの影であって、動物犠牲自体は罪をきよめはしなかった(へブル10:1-4参照)。人となって来られたキリストは、世の罪を取り除く神の小羊としてご自分を神にささげ(へブル10:5-10参照)、また、木にかけられ呪われた者となって、三日目に復活して贖罪の完成を証しされた。それゆえ、私たちは律法の呪いから贖い出され、信仰によって義と認められた(ガラテヤ3:11-13参照)。

以上のようなわけで、神の救いの計画の目指すところは、「インマヌエル」すなわち、神が人とともに親しく住む世界の実現である。つまり、神人キリストを長子とする神の民・神の家族という共同体を完成し、神の民に被造物を統治させること、神の王国の実現である。だが、その実現のためには、罪の償いが必須である。神の契約においては、罪を贖われ義と宣言されて、「神のかたち」を完成されてこそ、キリストの共同相続人としていただけるのである。

キリストの王職が強調される一方で、十字架に代償的贖罪を遂げてくださったキリストの祭司職が軽んじる向きもあるが、キリストは王でありかつ祭司であられる。

 

2 キリストを組織神学的展望の視点とする

 

パウロはローマ書1章から8章で救いの教理を教え、その総まとめとして述べる。

「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:29、30)

さらにパウロはローマ書8章で神の計画の究極の目的について、被造物全体の救いを視野に入れて叙述している。

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」(ローマ8:18-21)

 神の計画のゴールとは、神がキリストを長子とする神のの父となり、キリストが神の王国を相続し、神の子どもたちはキリストの共同相続人として、被造物世界を神の王国とすることである

さらにスタートからゴールまでの諸段階を、ごく簡潔に説明すれば、以下のようになる。首尾一貫してキリストが仲介者であり相続者であり王であり祭司であることがわかるであろう。

 

選びは神の王国の相続者である御子キリストの内に選ばれることであり(エペソ1:4)

創造はキリストが実行者であり、格別、人間の創造は御子をモデルとすることであり(創世記1:26,27、コロサイ1:15)

贖罪はキリストの受肉と十字架の犠牲と復活のわざであり(ローマ3:25)

義認はキリストの贖罪のわざを根拠とするものであり(ローマ3:24)

子とされることはキリストの弟妹にされることであり(エペソ1:5、ローマ8:29)

聖化はキリストを目指すことであり(2コリント3:18)

最後の審判者はキリストであり(使徒17:31)

完成した御国で御座には父と子羊キリストがいまして、そこから聖霊の川が流れ出ている(黙示22:1,2)。キリスト者はキリストの共同相続人として、神の王国を相続する(黙示22:5)。