序 19世紀以降、自由主義神学において、「福音とは本来、十字架の贖罪ではなく、神の王国の宣教である」と再定義されるようになった。パウロの語った十字架の福音は、イエスが福音書で語られた神の王国の福音とは別物であるというのである。これは本当か?この福音理解について、教理史的に整理しておきたい。

 

(1) 宗教改革まで ― 基本的には「対立」していない

 古代教会や宗教改革においては、十字架(代償的贖罪)神の国(神の支配)は分離されていない。たとえばアウグスティヌスは『神の国』において、神の支配はキリストの贖いによって実現すると理解した。マルティン・ルターは「十字架の神学」を強調したが、それは神の王国の到来と不可分とされた。ジャン・カルヴァンも、キリストの三職(預言者・祭司・王)を統合的に理解した。つまり、王なるキリストの支配は、十字架によって確立されるという理解が主流であり、聖書に基づいたものである。

 

(2)19世紀以降 ― 「神の国」中心への転換

リッチュル、ハルナック、米国の社会福音

 転機は啓蒙主義後の自由主義神学である。アルブレヒト・リッチュルは、福音の中心は「神の国」であるとして、十字架は私たちの罪からの贖いための客観的出来事というより、神の愛の模範的啓示であると再解釈した。贖罪論は「道徳的感化説」になる。ここで贖罪の客観性が弱まり、倫理的共同体としての神の国が前面に出てくるリッチュルは、圧倒的にカントの哲学・倫理学の影響を受けた人であり、彼がいう神の国は、カントがいう地上に実現すべき「倫理の王国」と重なる。

 ハルナックは、イエスの福音は「神の父性と人間の兄弟愛」であるとし、パウロ神学(十字架中心)を後代の神学的発展と見なし。ここで実質的にイエスの福音神の王国であり、パウロの福音十字架中心であり、両者は対立しているという聖書の誤読が決定的になった。

 アメリカでは、ウォルター・ラウシェンブッシュなどが、神のイコール社会改革であるとした。ここでは「王国」は社会倫理的に再定義され、贖罪論は後景に退リッチュルと同一線上にある。

 

②ヴァイス、シュヴァイツァー  終末論的神の国の強調

 ヨハンネス・ヴァイス、アルベルト・シュヴァイツァーなどは、終末論的な神の王国の到来がイエスの中心メッセージだとした。主イエスの十字架は神の国到来を早めようとした結果であり、失敗だったという。

 

③カール・バルト以降十字架と神の王国の再統合

 カール・バルトは自由主義神学を批判し、神の国は神の主権的行為であり、その決定的出来事が十字架と復活であると再統合した。福音は神の王的支配の到来であり、十字架における神の勝利という形で回復されこれは古代から宗教改革の時代の福音理解の回復である。

「聖書の福音は神の王国の福音であって、十字架中心ではない」という主張は、19世紀自由主義神学以降に強くなった潮流であって、聖書に根差したものでなく、神学者たちの恣意的解釈にすぎない。

 

(3)新約聖書において、神の国と十字架は本質的に分離不可能
共観福音書において

 イエスの宣教の中心は「神の国」であると言われる。たしかに、主イエスは「時が満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15と宣言して、福音宣教を始めた。しかし同じ福音書の中で、イエスは三度にわたり受難を予告し(マルコ8章以降)。重要なのは順序である。ペテロの信仰告白がなされ、その直後に主イエスは「人の子は苦しみを受ける」と予告し、そして「自分を捨て、十字架を負え」と命じた。ここで明らかになるのは主イエスは、十字架の死と復活によって、神の国の王となられるということである。

 

②ヨハネ文書において「王」と「十字架」結合されている

 十字架刑の罪状書きは「ユダヤ人の王」(ヨハネ19章)である。また、主イエスは荊の冠をかぶり、葦の王勺をもち、派手な衣を着せられ、王の装束で王として受難された。これは神の摂理である。ヨハネ福音書では、十字架は「栄光を受ける時」として描かれている12章、17章)。つまり十字架=敗北ではなく十字架=即位なのである。

 ヨハネ黙示録において本来、聖書において、十字架の福音と神の王国の福音は二者択一ではない。主イエスは祭司でありかつ王である。子羊イエスの犠牲を根拠として贖われた私たちは、祭司・王なるキリストの共同相続人とされて神の王国を相続して、これを祭司・王として治めるべく召されている。黙示録において、王座にいますお方は、屠られた子羊、つまり祭司である王なのである。

「また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。」(黙示録5:610

 

パウロ神の

 自由主義者は、イエス 神のの福音を語り、パウロ十字架のことばを語ったと対比するが、パウロも「神の国は、義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17であると語り、「神の国は言葉ではなく力にある」(1コリ4:20)と述べている。しかも彼にとってその力とは「十字架の言」(1コリ1:18)であるつまり、キリストは十字架の死をもって、勝利を得て、神の王国を確立なさったのである。

 さらにパウロは復活したキリストの世界と教会の王としての即位を語り(エペソ12123)、王として教会にみことばの役者たちを立てて、教会を統治すると教えている(エペソ411)。さらに、再臨において、キリストは王として到来して審判を行ない、全被造物を栄光のうちに入れられる(ローマ81821)。

 

むすび 

 神の王国と十字架が対立しているという構図は、聖書を啓示されたままに受け取ろうとしない自由主義神学者たちの幻想である。他方、福音派は十字架を個人救済のみで考えると王国的な広がりを見失いがちである。新約聖書は、祭司であり王であるキリストの十字架の贖罪は、神の王国を打ち立てるわざだったと教える。キリストの十字架の出来事は、神の王国を実現する中心的戦いであった。