日曜劇場「空飛ぶ広報室」 | 「都立受験」のプロフェッショナル(学志舎)

ご興味ある方は、ご覧下さい。私も最終話まで観てみようと思います。


http://www.tbs.co.jp/soratobu-tbs/


ただドラマではなく、10数年前、現実としてあったことも目を向けて頂ければ幸いです。

防衛大の学生時代にある方から頂いたメールです。


航空自衛隊入間基地所属の練習機T33が墜落し、二人の自衛官が殉職する事故が起こった。マスコミは、「送電線が切れて八十万世帯が迷惑した」などと非難するばかりであったが、地元では隊員の犠牲的精神を顕彰する声も聞かれた。



以下に紹介するのは、事故現場近くにある私立狭山ヶ丘高校校長の小川義男先生が学校通信に記した「人間を矮小化してはならぬ」という一文です。



とにかくじっくり読んで見てください。


「…この二人の高級将校は、何故死ななくてはならなかったのでしょうか。それは、彼らが十分な高度での脱出を自ら選ばなかったからです。おそらく、もう百メートル上空で脱出装置を作動させていれば、彼らは確実に自らの命を救うことができたでしょう。47歳と48歳と言いますから、家族に取りかけがえも無く尊い父親であったでしょう。それなのに、何故彼らはあえて死を選んだのでしょうか。実は、あの墜落現場である入間川の河川敷は、その近くに家屋や学校が密集している場所なのです。柏原の高級住宅地は、手を伸ばせば届くような近距離ですし、柏原小、中学、西武文理高等学校もすぐそばです。


百メートル上空で脱出すれば、彼らは確実に助かったでしょうが、その場合残された機体が民家や学校に激突する危険がありました。彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空飛行で河川敷に接近しました。そうして他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させていたのです。


死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったのものは、家族の顔でしょうか。それとも民家や学校を巻き添えにせずに済んだという安堵感でしょうか。 他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神のなんと崇高なことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的死を選ぶことができますか。私は、恐らく皆さんも同じコースを選ぶと思います。私も必ずそうするでしょう。実は、人間は神の手によって、そのように作られているのです。人間はすべてエゴイストであるというふうに、人間を矮小化、つまり実存以上に小さく卑しいものに貶めようとする文化が今日専らです。しかしそうではありません。人間は本来、気高く偉大なものなのです。火災の際の消防士の動きを見て御覧なさい。逃げ送れている人があるとしれば、彼らは自らの危険を忘れて猛火の中に飛び込んでいくではありませんか。母は我が子のために、父は家族のために命を投げ出して戦います。これが人間の本当の姿なのです」


殉職自衛官の心情を十二分に汲み、人間の本質にまで言及した文章は宗教者の説法を想わせる。が、そんな校長も自衛隊への冷たい仕打ちに対しては容赦ない矛先をむける。


「しかし、新聞は、将校たちの崇高な精神に対して、一言半句の誉め言葉も発しておりません。彼らは、ただもう自衛隊が『また、事故を起こした』と騒ぎ立てるばかりなのです。防衛庁長官の言動も我慢がなりません。彼は、事故を陳謝することのみに終始していました。その言葉には、死者に対するいたわりの心が少しもありません。 防衛庁の責任者が陳謝することは、それはもう当然です。国民に対してばかりか、大切な隊員の命をも失ったのですから。しかし、陳謝の折に、大臣はせめて一言、『以上の通り大変申し訳ないが、隊員が、国民の生命、財産を守るため、自らの命を犠牲にしたことは分かってやって頂きたい。自衛隊に反発を抱かれる方もあるかも知れないが、私にとり、彼らは可愛い部下なので、このことを付け加えさせてもらいたい』くらいのことが言えなかったのでしょうか。隊員は命を捨てて国民を守っているのに、自らの政治生命ばかり大切にする最近の政治家の精神的貧しさが、ここには集中的に表れています。まことに残念なことであると思います。このような政治家、マスメディアが、人間の矮小化をさらに加速し、英雄無き国家、エゴイストのひしめく国家を作り出しているのです」

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自分と家族は、このような人たちの尊い犠牲の上に守られているのだと、あらためて自覚し、彼らに対して感謝の念にたえません。 



でもね、布施君。命を大事にしてください。決して、無理をしないように。命をすてることも公のためですが、生きて公に尽くすこともまた良しです。



今回のメールは、決して命を捨てることを美化しているのではなく、ただ、ただ、心の洗われる文に触れて伝えたかったのです。