曖昧な答えは、断定的な結論にはない役割も果たす。その結果と向き合って生きていかなければならない本人に、考える余地を残すという役割だ。その場合、相談する側は、アドバイザーの指示に従うか、もしくは反論するかという二者択一を迫られることなく、問題に取り組み続けることができる。
正解のような不正解のような![]()
「答え」ではなく「問い」が大正解だな。
曖昧な問いが考える余地を残す。
わしに人生相談してみろ ヽ(`Д´)ノ
てきめんに後悔の道を歩むぞ ヽ(`Д´)ノ
自分の人生ダメにしたいんか ヽ(`Д´)ノ
こういうのは問題外。
考える余地なし![]()
というのは、さておき。
さておく前に考えろや![]()
こんなこといちいち書く必要があるのか。
何かの役に立つのか。
なぜ私は余計なことを書かずにはいられないのか。
などなど。
先日、仏教は宗教や哲学ではなく単なる認識論なのではないか?というのを書いたけれど、初期の仏教に見られるブッダとのやりとりはまさにこれなんですよね。
後期の禅問答もそうですよね![]()
現代では仏教について、世界とは何か。人間とは何か。死とは何か。輪廻とは何か。そうした問いに対する答えを釈迦が説いた「宗教」あるいは「哲学」と見ているように思えます。
自分が見たいものを見る。
それが人間という代物なのだ![]()
しかし、初期の仏教経典を眺めていると、どうも様子が違う気がするんですよね。私にはむしろ単なる「認識論」であるように思えます。しかも現代でも通用するかなり高度な認識論です。
そう思うなら少しは勉強しな。
勉強つっても「認識論」を血まなこで読み漁ることじゃないよ![]()
そのことをよく示しているのが、パーリ経典『中部経典』第二十二経「蛇喩経」に出てくる、いわゆる「筏(いかだ)のたとえ」です。
これは釈迦が自分の話を、川を渡るための筏に喩えるもので、筏は必要だ。川を渡るためには、筏を使わなければならない。しかし、向こう岸に着いた後まで「この筏はありがたいものだから」と陸に引き上げて担いで歩いてゆく必要はどこにもない。教えは目的ではなく、目的に至るための手段だから、ですよ。
筏は手段だが、今後もずっと使える。
拝む必要はないが、捨てる必要もない![]()
これは、宗教の教祖さまが自分の教えについて語る言葉として考えると、なかなか奇妙であると言えます。
釈迦は宗教の教祖様じゃない![]()
むしろ宗教の間違いを正す係。
自分を向こう岸に運んでくれたものを神格化し、担いで歩くことの愚かさを説いただけ。
普通であれば教祖さまってぇのは「この教えこそ真理なのだ。後世の者はこれを守り続けよ」となりそうなものですからね。ところが、ブッダはむしろ、法にさえ執着するな、と明確に言っている。そうなると仏教というものは、最初から自分自身を絶対化することへの警戒を内蔵していたのではないかと思えてきます。
内臓どころか、最初から外付けHDDですわ![]()
法にさえ執着するな!
この教えこそ真理なのだ。後世の者はこれを守り続けよ![]()
このことから、後の仏教におけるあまりに有名な「空」という考え方も、少し違って見えてきます。
今までどう見えてたの?![]()
もちろん歴史的には「空」は後代の大乗仏教で大きく展開された思想なので、ここで私が「空」を持ち出したのは厳密な思想史の議論ではなく、認識の固定化を解体する方向性という意味での連続性からです。
小難しい漢字を使って説明する必要はどこにもない![]()
「空」と聞くと、何か世界の奥底にある「空」という実体のようなものを想像したくなるかも知れません。しかし、それではおかしい。「世界の本質は空なのだ」と理解した瞬間に、今度は「空」という新しい何かを掴んでしまうからなんですよね。
おかしいのはおまえだよ![]()
「空」は今の言葉でいうと「無意味」
空という何かがあるのではない。
無意味という状態があるだけ。
「これは私である」「これは永遠である」「これは真理である」と掴んでいたものを、「これは空である」という別の言葉に置き換えただけなら、認識の構造そのものは何一つ変わっていない。そう考えると、「空」は何か新しい概念を発見したというより、物事を固定した実体として掴んでしまう、人間の認識の癖を解体するための言葉だったのではないかとさえ思えてきます。
んだがらー、それが「無意味」なの![]()
おめえの認識の癖を解体するための言葉だよ。
そして、皮肉なことに「空とは何かを私は理解した」と考えた瞬間、もう一つの「空」という実体を伴う概念に居付いてしまっている。仏教というものは、そういうところまで人間を追い込んでくる。仏教がエグいものだとすれば、そういう過酷な認識法を自らに課す部分こそがエグい、と言えるかも知れません。
そういうのは後の世の腐れ坊主がやってるだけ![]()
そう考えると、仏教を単純に「哲学」と呼ぶことにも、少し違和感が出てきます。
おめえは無意味な言葉遊びで人様の人生ダメにしたいんかー![]()
YES![]()
哲学という言葉からは、世界について整然とした答えを構築する営みを想像しやすい。しかし仏教の初期の姿は、それよりも、「お前はいま、何を見ているのか」と問い続けるものだったのではないかと私には見えます。そして、「それを見ていることを確信している自分自身は、何を付け加えているのか」と、さらに問い返す。そこには「最終的な正解を所有する」という発想の薄さを感じます。
哲学という言葉から何かを想像しやすいとかほざいてる時点で、「おまえは今、何を見ているのか」と聞きたいわ![]()
初期の仏教はこうで、後の仏教はこうで、どこそこに違和感が出るとか、発想の薄さを感じるとか、
それを空というんだよ、パカー![]()
