日曜の朝、鐘の音が遠くでほどける。
白い息を吐きながら、秀人は教会の階段を上る。
冬の空は静かで、空気は澄みきっていた。
ここなら、真実が語られる。そう思っていた。
ある日、牧師が夢を語った。
岸から男たちが釣り糸を投げる。
その先で、アザラシがもがいている。
牧師はその間に立ち、困っている。
秀人は言った。
「釣り糸を投げているのは、誰かを傷つける言葉。
アザラシは、傷つけられている人。
あなたは、その間で揺れているのです」
牧師の表情が、雪のように揺れた。
後日、二人は談話室で向かい合った。
窓の外では、雪が静かに降っていた。
「私は、日本が悪いと教えられてきたんです」
牧師は湯気の立つカップを見つめながら言った。
秀人は静かに答えた。
「事実を確かめましょう。
正しければ受け入れ、違えば改める。
それだけのことです」
牧師は首を振った。
「変える気はないんです」
雪よりも静かな言葉だった。
秀人は言った。
「天国で『知らなかった』とは言えません。
今日、あなたは知る機会を持ったのですから」
牧師は沈黙した。
それは拒絶ではなく、動けない人の沈黙だった。
「釣り糸を切るのが僕の役目。
釣り針を抜くのは、あなた自身の役目です」
その言葉に、牧師の目がかすかに揺れた。
秀人はいくつかの教会を渡り歩いた。
どこも温かく、誠実だった。
けれど、歴史の話になると、決められた言葉が並ぶ。
誰も悪くない。
ただ、そう教えられてきただけなのだ。
やがて、今の教会にたどり着いた。
礼拝が終われば、皆静かに帰っていく。
誰も深く踏み込まない。
歴史の話題も出ない。
「ここなら、心が疲れない」
秀人はそう思った。
無理に変えなくていい。
無理に合わせなくていい。
自分の心が壊れない距離を選べばいい。
もしまた重くなったら、別の場所に行けばいい。
どこにいても、信仰は続けられる。
雪解けの道を歩きながら、秀人はつぶやいた。
「僕は僕の距離で、信じていけばいい」
その背中は、以前よりも軽く、
そして、どこか誇らしげだった。