クナシリ・メナシで何が起きたのか | 100年のブログ

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1789年、クナシリ・メナシで何が起きたのか

――「誰が悪かったのか」を決める前に、残された史料を読んでみたい

1789年(寛政元年)、現在の北方領土・国後島(クナシリ)と、北海道東部の標津・羅臼周辺(メナシ)で、大きな事件が起こりました。

一般に「クナシリ・メナシの戦い」「寛政蝦夷の乱」などと呼ばれている事件です。

クナシリとメナシのアイヌの人々が蜂起し、松前藩の足軽や、場所請負人である飛騨屋久兵衛の支配人・通詞・番人などを襲撃しました。

根室市の資料によれば、蜂起に参加したアイヌはクナシリ41人、メナシ89人、合計130人。

殺害された和人は71人。

その後、松前藩による取調べが行われ、直接の加害者とされた37人のアイヌが処刑されました。

この「71人」と「37人」は、この事件を考えるうえでまず押さえておくべき数字です。

しかし――

なぜ、このような事件が起きたのでしょうか。

■「日本人によるアイヌへの圧迫」だけで説明してよいのか

事件の背景として、飛騨屋久兵衛による場所経営の問題があります。

飛騨屋は1788年からクナシリ・メナシ地方で、アイヌを雇用して鮭・鱒を大量に漁獲し、それを「〆粕」という魚肥に加工する新しい漁業を始めました。

北海道博物館の研究によれば、この時期のアイヌは、

越冬用の食料を確保することも難しい状況で働かされた

十分な手当を受けていなかった

漁場の番人から粗暴な言動や暴力を受けた

アイヌ女性をめぐる問題も生じていた

とされています。

そして、こうした状況がアイヌの和人に対する不満を増大させ、1789年の蜂起につながったというのが、従来の研究で示されてきた理解です。

これは無視できない重要な事実です。

■ しかし、もう一つ気になることがあります

それは、「食料」の問題です。

1789年だけを見るのではなく、少し前まで時間を戻してみる必要があります。

1780年代は、全国的な天明の飢饉の時代でした。

特に東北地方の被害は甚大で、南部藩では1783年から1787年頃にかけて凶作・飢饉が続きました。

記録によれば、1783年の天明3年には多数の餓死者が出て、その後も1784~1787年に飢饉・凶作が続いています。

つまり、クナシリ・メナシの事件が起きた1789年は、

日本列島北部全体が、食料事情の悪化を経験した時代の直後

だったことになります。

もちろん、

「天明の飢饉がクナシリ・メナシの戦いを起こした」

と断定することはできません。

しかし、これは無視できない背景ではないでしょうか。

■ 和人とアイヌ、双方にとって「食料」は重要だった

当時の蝦夷地は、本州のように米を自給できる地域ではありませんでした。

和人側から米・酒などの生活物資を持ち込み、アイヌ側から毛皮・海産物などの産物を得るという交易関係が存在していました。

一方、アイヌの人々にとっては、鮭などの漁猟は単なる「商品」ではなく、自分たちの生活と越冬を支える重要な食料資源でもありました。

ところが1788年から、飛騨屋による大規模な商品漁業が始まります。

ここには、非常に興味深い矛盾があります。

鮭・鱒が豊富に獲れる土地なのに、

その漁に従事するアイヌ自身が、冬の食料を確保できなくなっていく。

北海道博物館の研究では、実際にそのような状況が指摘されています。

つまり「食料がなかった」というだけではなく、

「食料を確保するための時間や条件を失っていった」

という問題だった可能性があります。

■ ここで、一つの仮説が浮かびます

1780年代の大きな流れを考えると、

天明の飢饉・凶作

 ↓

東北・蝦夷地を含む北方地域の食料事情が悪化

 ↓

食料・交易品・海産物の重要性がさらに高まる

 ↓

1788年、飛騨屋がクナシリ・メナシで大規模な商品漁業を開始

 ↓

アイヌが漁場労働に拘束され、自分たちの越冬食料を確保することが難しくなる

 ↓

低い報酬、暴力、脅迫、女性をめぐる問題などが重なる

 ↓

和人に対する不信・不満が蓄積

 ↓

1789年の蜂起

――という構造です。

ただし、これは現在の史料から検証すべき仮説であって、すでに証明された一本の因果関係ではありません。

だからこそ、調べる価値があります。

■ 「毒殺」も重要な問題です

事件の直接的なきっかけとして、国後島の惣長人サンキチが、和人から持ち込まれた酒を飲んだ後に死亡したことなどが伝えられています。

これが「毒殺された」とアイヌ側で考えられ、蜂起の引き金になったと説明されています。

しかし、ここも、

「毒殺された」

と

「毒殺されたと信じられた」

は区別しなければなりません。

現在確認できる資料からは、毒殺そのものを現代の私たちが事実として確定することはできません。

しかし、当時の人々が「毒殺された」と考えるに至ったこと、それが事件の背景になったことは重要です。

■ では、「アイヌの嫉妬」が原因だったのか?

ここも慎重に考える必要があります。

最近読んだ『蝦夷草紙』の「妻妾之事」には、クナシリの有力者ツキノエに妻・妾が多数いたことが記されています。

ところが、その文章をよく読むと、

「妾共大勢寄合テモ、恪気嫉妬ノ意モナク……」

つまり、妾たちが大勢集まっても、嫉妬することなく仲良くしている

という意味の記述です。

したがって、この部分を根拠に、

「アイヌの嫉妬が事件を引き起こした」

と直接結論づけることはできません。

まして「妻妾之事」の次に続くのは「漁猟之事」であり、ここは1789年の蜂起そのものを説明する箇所ではありません。

「嫉妬や誤解」という説明がどこから出てきたのか。

これは、今後さらに原史料を比較して確認する必要があります。

■ だから、私は「どちらが悪い」と決める前に史料を読んでみたい

1789年の事件については、現在でもさまざまな説明があります。

しかし、

「アイヌ=完全な被害者」

「和人=完全な加害者」

という一方向の見方だけでも、

「アイヌ側の嫉妬や誤解が原因」

という説明だけでも、歴史全体を説明するには不十分ではないでしょうか。

実際には、

当時の食料事情

天明の飢饉

松前藩の交易制度

場所請負制度

飛騨屋の経営事情

1788年からの漁業拡大

アイヌの労働条件

報酬・交易品の問題

和人側の暴力・脅迫

女性をめぐる問題

毒殺の疑い

アイヌ社会内部の人間関係

事件後の松前藩による取調べ

37人の処刑

など、多くの要素が重なっています。

■ これから読んでみたい史料

幸い、この事件については、1789~1790年頃に書かれた史料が残っています。

たとえば、

① 『クナシリ・メナシの戦い御届書状』

1789年閏6月2日付。

松前志摩守からの事件報告書の写しとされています。

事件直後に松前藩側が何を報告していたのかを知るための重要な史料です。

② 『寛政元年酉閏六月クナシリ嶋夷騒動届書記』

松前側の事件報告をまとめた記録。

事件の経過だけでなく、飛騨屋やロシア人との関係なども含まれています。

③ 『蝦夷騒擾記』

1790年頃の史料。

松前・南部側の報告や風聞などをまとめたものとされています。

一つの「公式見解」として読むのではなく、どんな情報が当時流通していたのかを見る必要があります。

④ 『万永代覚帳』

商人側に伝わった記録。

松前藩の公式記録とは違う立場から事件を見る手掛かりになります。

⑤ 最上徳内『蝦夷草紙』

今回話題になった史料です。

ただし、現在残っている写本同士を比較して、

「本当に削除された文章なのか」

「写本による異同なのか」

を確認する必要があります。

■ これからの研究で確認したいこと

特に私は、次の点を調べてみたいと思います。

① 1788年以前、クナシリ・メナシのアイヌはどうやって越冬食料を確保していたのか。

② 1788年の飛騨屋の漁業開始によって、食料確保の時間や方法は具体的にどう変化したのか。

③ 天明の飢饉による東北・松前方面の食料事情と、クナシリ・メナシの状況にはどのような関係があったのか。

④ アイヌ側の不満について、事件直後の史料は何を記録しているのか。

⑤ 和人側の暴力・脅迫・女性をめぐる問題は、一次史料ではどのように記録されているのか。

⑥ 「毒殺」は事実だったのか、それとも疑いだったのか。

⑦ 「嫉妬や誤解」という説明は、どの史料から出てきたのか。

⑧ 『蝦夷草紙』の「削除された部分」は、本当に政治的な削除なのか。それとも写本の異同なのか。

そして、

⑨ 1789年当時の和人・アイヌ双方の証言を、後世の解釈と区別して読むこと。

結論を急がず、まず史料を読んでみたい

歴史上の事件は、後世になるほど簡単な物語になっていきます。

しかし、実際にその時代を生きていた人々にとっては、もっと複雑だったはずです。

1789年のクナシリ・メナシについても、

「誰が善で、誰が悪だったのか」

を最初に決めるのではなく、

「その時、何が起きていたのか」

を一つずつ史料から確認してみたいと思います。

特に今回気になったのは、1788年の漁業開始と食料問題です。

天明の飢饉という広い社会背景があり、そこに蝦夷地特有の交易・食料事情があり、さらに飛騨屋による新しい漁業経営が始まった。

この三つが、1789年の事件とどこまでつながっているのでしょうか。

これはまだ、私自身も答えを持っていません。

だからこそ、結論を決めずに調べてみたいと思います。

もし、この事件について一次史料・研究論文・古文書などをご存じの方がおられましたら、ぜひ教えてください。

立場や思想からではなく、

「史料に何が書かれているのか」

を一緒に確認できればと思います。

参考資料

根室市「1789年クナシリ・メナシの戦い」

根室市「寛政の蜂起和人殉難墓碑」

北海道博物館『北海道博物館研究紀要 第2号』(2017)「飛騨屋久兵衛家文書からみたクナシリ・メナシ地方」

国立国会図書館レファレンス協同データベース「南部藩の飢饉について」

※この文章では、確定している事実、当時の記録、後世の研究者による解釈をできるだけ区別しました。今後、一次史料そのものを確認することで、さらに修正すべき部分が出てくる可能性があります。