
職員室のドアが静かに閉まる音がした。
佐伯ひかりは、呼び出しを受けて廊下を歩いていた。
その足取りはゆっくりで、しかし迷いはなかった。
扉の前に立つと、内側から声が聞こえた。
「……彼女は、何者なんですか?」
その声に、ひかりはすぐに気づいた。
昨日、仮面を剥がされた男──
アレクサンダー・グレイ。
教師が答える。
「普通の生徒です。成績は優秀で、問題行動もありません」
「……そうですか」
ひかりはノックをせず、静かにドアを開けた。
部屋の空気が一瞬だけ止まる。
アレクサンダーが振り返る。
その目には、昨日とは違う“影”があった。
「佐伯さん……ですね」
ひかりはうなずく。
アレクサンダーは、彼女を見つめながら言った。
「昨日のことは……少し、驚かされました」
ひかりは答えない。
彼が“何に驚いたのか”を、彼自身が言葉にするまで待っていた。
「あなたは……私の“仮面”を見抜いた。
それは、私がロンドンで身につけたものです。
外交官として、必要だと教えられた“演技”です」
ひかりは静かに言う。
「その仮面は、あなたを守ってきたんですね」
アレクサンダーは目を伏せる。
「ええ。
でも、守るだけではなく……
時に、誰かを欺くためにも使ってきました」
ひかりは一歩だけ前に出る。
「それは、あなたの意思ですか?
それとも、誰かの戦略ですか?」
アレクサンダーは答えられなかった。
その沈黙の中に、ロンドンの石畳の冷たさがよみがえる。
ひかりは続ける。
「私は、あなたの“影”を見ました。
でも、それはあなたの罪ではない。
ただ、あなたが背負っているものです」
アレクサンダーは、初めて目を見開いた。
その瞳の奥に、わずかな光が差した。
「……あなたは、何者なんですか」
ひかりは微笑む。
「私は、ただの高校生です。
でも、“影”を読むことができます。
それだけです」
沈黙が落ちる。
しかし、それは重苦しいものではなかった。
アレクサンダーは、ゆっくりと立ち上がる。
「佐伯さん。
私は、あなたにもう一度会いたかった。
昨日の自分が、あまりにも“演技”だったから」
ひかりはうなずく。
「では、今日のあなたは“本当”ですか?」
アレクサンダーは、少しだけ笑った。
「……まだ、途中です」
ひかりはその言葉を受け止めた。
そして、静かに職員室を後にした。
廊下の窓から、冬の光が差し込んでいた。
その光は、昨日よりも少しだけ暖かかった。