もう2ヶ月になってしまう。
2ヶ月前は、夏の終わりだったのに、
もう冬の入口になってしまった。
大阪の、2日目のこと。
会いたい人に会えて、
大好きなミナミにも行けて、
食べたいものも食べて。
それでもどうしても行きたかった。
「太陽の塔へ行きたい」
そう言ったら、
「万博記念公園に行きたいの?」
と、友人は意外そうな顔をしていた。
行きたい場所が、
そういう名前であることも知らなかった。
もう一度、太陽の塔が見たかった。
何度も何度も訪れているはずなのに、
記憶の中には全くない。
けれど、相当の数の写真が残っている。
いろんな季節の、
太陽の塔の前の、
小さなわたしと、父と、母と。
父は、フイルムのメーカーに勤めていた。
そのせいでなのか、
お出かけというと、
大きなカメラで、とにかくよく写真を撮った。
社内のコンクールで入賞した写真もあった。
たぶんきっと、
わたしの子供時代の写真は、
相当多いのではないかと思う。
数ある写真のなかで、
あの強烈な顔と形の太陽の塔は、
ずっとわたしの記憶のなかに、
残り続けている。
写真のほとんどは、
太陽の塔の前の芝生で、
お弁当を食べているものばかり。
唯一覚えているのは、
必ず家族5人分のゆでたまごがあって、
アルミホイルに包まれた塩を、
そっと広げて大事につけて食べたこと。
ゆでたまごは誰かがむいてくれたこと。
アルミホイルが、
きっちり四角く折られていたこと。
涙が溢れて困った。
芝生は、立入禁止になっていた。
でも確かに35年前、
わたしはここにいたんだ。
5人家族で。
写真のその場面そのままを、
芝生のなかに鮮明に見るような気がした。
父の顔を覚えていない。
最後に母に会ってから、2年近くたつ。
どうしてこんなになっちゃったのだろう。
確かにわたしはここにいたのに!
雨が降っていなかったら、
わたしはたぶん、膝をついて、
身体を折り曲げて泣いていた。
太陽の塔を見上げて、
ただただ、どうしてだと思い続けた。
今よりずっとずっと便利じゃない時代に。
故郷から何百キロも離れて、
夢中で姉たちとわたしを育てたのだと思う。
幼児に外でお弁当を食べさせるのは、
簡単なことじゃない。
まして、3人の子供にそうさせるとなったら、
どれほど大変だったか。
それなのに、どこに行くにも、
母はお弁当を作った。
5つのゆでたまごと一緒に。
お母さん。
会いたいよ。
あとからあとから涙が出た。
先を歩く友人が一度だけ振り返って、
タオルを渡してくれた。
物心ついたときから、
愛されているという実感がなかった。
捨てられた、
とさえ思うこともあった。
でも確かに両親は、一生懸命、
わたしを育ててくれたときがあったのだと思う。
涙が止まらなかった。
夫も子供も、
これまでの全ての記憶と引き換えにしても、
あの頃に戻って、
全てをやり直したいとさえ思った。
空港までの途中、
いま通っている道が、
箕面街道だと気がついた。
ナビをずっと指で辿ると、
住んでいた家のすぐ近くを通る。
危ないから箕面街道の方へは行っちゃいけません。
そう言われ続け、
怖い道として刷り込まれていた箕面街道。
片側一車線の、小さな道路だった。
「寄る?」
時間があるから寄れるよ、と言ってくれたので、
回ってもらった。
41歳になったわたしには、
街並みが全てジオラマのように思えた。
小さな道、小さな曲がり角。
でも、わたしは確かにここにいたんだ。
父と母と、姉たちと。
友人と別れ、
小一時間、離陸まで、
ぼんやり滑走路を眺めて過ごした。
飛行機のなかでも、
グズグズと泣き続け、
こすると腫れる、と、
誰かが言っていたのを思い出して、
流れるままに放っておいた。
答えは出ない。
でも、太陽の塔に会いに行ったのは、
間違いじゃなかった。
父のことも探せていない。
母に会うこともできていない。
でもいつかきっと、
納得のいくときがくるのだろうと思う。
そしたらきっと、
どうすべきなのか、
わかるような気がする。
書くのに2ヶ月かかってしまったよ。
でも、いつわたしが何をどう思ったか、
書き残したかった。