松江市山代方墳・大庭鶏塚古墳 | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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山代二子塚の東側にある山代方墳へ。

 

 

 

 

 

国指定史跡 山代方墳
山代方墳は、古墳時代後期末(6世紀末~7世紀前半)に築かれた大型方墳です。隣接する山代二子塚古墳や大庭鶏塚古墳などとともに「山代・大庭古墳群」と呼ばれ、島根県内では最大級の古墳群である。この古墳は山代二子塚古墳の次代の首長の墓と考えられている。
墳形は方墳である。墳丘規模は、南北が43m、東西が45mで、2段につくられている。墳丘の周囲には幅14mの大規模な周溝がめぐり、さらにその外に周堤が存在した可能性がある。こうした周溝をもつ精美で大型の方墳は、当時の畿内の最有力クラスの古墳にみられ、中央政権の有力者・蘇我氏との関わりがあるとの考えもある。
埋葬施設は、石棺式石室と呼ばれる出雲東部独自のもので、大きな切石を組み合わせてつくられている。古くから開口していたため、副葬品は知られていない。平成4年度に周溝の一部が発掘調査され、出雲型子持壺と呼ばれる、出雲独自の葬儀用に使った土器が多数出土している。
6世紀後半の出雲は、山代・大庭古墳群と、出雲市塩冶町付近に大型古墳が集中して築かれており、出雲の東西にそれぞれ中心的な勢力があったと考えられている。しかし、続く6世紀末から7世紀前半にかけては、この古墳のような大型古墳は出雲では他にはつくられていない。このため、この古墳の被葬者は出雲全体を統括する最初の首長であった可能性が高い。このように、山代方墳は出雲の古墳時代を考えるうえで欠くことのできない極めて重要な古墳であるといえる。
 

昭和16年(1941)8月1日指定
平成15年(2003)3月 島根県教育委員会

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

木の奥に2段目が見えます。

 

 

 

 

 

南側には横穴式石室があります。
 

 

山代方墳の石棺式石室
山代方墳の石室は、石棺式石室と呼ばれている。これは、石室の壁・天井・床がそれぞれきれいに加工された一枚の切石によって構成される石室で、天井は家形にきれいに加工され、入口には閉塞石を受けるくり込みがつくられている。また石室内部には、遺体をおくための石製のベッドがおかれている。
このような石室は、九州地方の家形古墳をモデルとして、この地域で独自の発展をしたもので、6世紀後半から7世紀前半にかけて、出雲東部の有力な首長墓用の埋葬施設として流行した。出雲型子持壺や前方後方墳とともに、全国的にも異彩を放つ個性的な出雲の後期古墳文化を代表するものの一つである。

 

 

 

 

築造は6世紀末~7世紀前半

 

 

 

 

小っちゃすぎてムリ~💦

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幅14mの大規模な周溝がめぐり、さらにその外に周堤が存在した可能性がある。

周溝の一部が発掘調査され、出雲型子持壺と呼ばれる、出雲独自の葬儀用に使った土器が多数出土している。

 

 

 

 

これが周溝と周提(右奥)かと思ったんですが、”幅14m”もありませんね・・・

 

 

 

 

 

 


 

山代方墳のすぐ北東側に永久氏宅後古墳(山代円墳)があって、石棺式石室が露出しているそうです。私有地にあって、公開はされていません。

 

ガイダンス山代郷の職員さんは「エイキュウさんの石室は、どの石棺式石室よりも美しい」と力説してくれました。

 

 

 

 

 

「エイキュウさん」て、「永久さん」なんですね~。勝手に「エイキュウ寺」だと思い込んでました。よく寺や神社に古墳があるでしょ?

 

「エイキュウさん・エイキュウさん」と職員さんが連発する間、「一休さん」に出てくる和尚さまの顔が頭をぐるぐる回っていたのは内緒ですゲラゲラ

 

 

 

 

 

 

次は、山代二子塚古墳の西にある大庭鶏塚古墳へ。

 

 

 

 

 

国指定史跡 大庭鶏塚
 

大正13年12月9日指定
 

この古墳は、南から延びる台地の先端を切り崩して墓域を区画して築かれた出雲地方最大級の方墳である。
一辺は約42m、高さは約10mを測る。
二段築成で、各段の斜面には石垣状の葺石が認められ、墳丘の西辺と南辺に造出部を設けている。
西側には濠が確認されている。これまでの出土品は、円筒埴輪片、須恵器(器台・甕)が知られており、その年代観からおよそ古墳時代後期前半頃(6世紀中葉)に築かれたものと考えられる。
付近には山代二子塚(全長94mの前方後方墳)や、山代方墳(一辺45mの方墳)など県内A級の規模と内容を有する古墳があり、本古墳は大庭地区はもとより広く周辺一帯を掌握していた大豪族の長のお墓ではなかったかと推測される。
 

平成9年3月 松江市教育委員会

 

 

 

 

 

 

東側から墳頂へ。

 

 

 

 

 

 

注連縄が張られている場所がありました。

 

 

 

 

西側の造り出し

 

草ぼうぼうで境目がわかりません。

 

 

 

南側の造り出し

 

草ぼうぼうで境目がわかりません。

 

 

 

 

 

下に下りて1周?真夏の正午、暑すぎてそんな気が起こりませんでした。

 

 

「神名樋野よ、ごめん」

 

 

*『出雲国風土記』に神名樋野と書かれた茶臼山のこと