青谷上寺地遺跡展示館 | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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「青谷弥生人そっくりさんグランプリ」で有名な、あの青谷上寺地遺跡にやってきました。

 

 

 

 

 

まずは展示館で下調べです。

 

 

 

 

 

顔ハメもあるんですけどね~、私も夫も弥生人からほど遠い顔なんでやめておきました(笑)

 

 

 

 


序、地下の弥生博物館

青谷上寺地遺跡は鳥取県鳥取市青谷町にあり、2008年3月には国史跡に指定されました。

 

内湾に面した微高地に形成された集落遺跡で、多種多様な遺物が良好な状態で出土し、「地下の弥生博物館」と呼ばれています。

 

弥生人骨から3人分の脳が見つかったことでも注目されています。


展示の導入では、1800年前の様子を復元したCGパネルと、青谷上寺地遺跡の代名詞とも言える精巧な木製品たちが皆さまをお迎え致します。

 

 

 

 

 

出土品の一部1,353点が国の重要文化財に指定されています。ですが、重要文化財の展示物が全部(?)がレプリカなので、レプリカではない展示物を載せますね。

 

来年にはもっと大きな博物館ができるそうなので、本物はその博物館を見学したら載せようと思ってます。次はいつ来れるかわからないですけどね~(笑)

 

 

 

 

 

 

 



一、衣

青谷上寺地遺跡から出土した櫛(くし)・簪(かんざし)などの装飾品には細かく美しい模様が彫り込まれています。勾玉やガラス玉・管玉も出土しており、これらの装飾品はムラのリーダーやシャーマンなどの特別な立場の人物が身に着けていたと考えられます。また、勾玉・管玉の材料、玉作の道具の中には地元青谷町では手に入らないものもあり、他の地域と交流していたことが伺えます。
この他、布を織るための紡織具・針、弥生時代では大変珍しい木履も展示しています。

 

 

 

 

ヒスイ製勾玉

 

 

 

 

 

 

制作資料

 

 

制作も行われていたようです。

 

 

 

 

 



二、食

ここでは漁業・農業・狩猟の道具、土器、本物の貝塚を展示し、弥生人の食生活を紹介しています。青谷上寺地遺跡は内海に面していたため、魚や貝を獲っていたようです。貝塚を観察すると弥生人が何を食べていたのかがわかります。
また、弥生時代は稲作が始まった時代で、遺跡からは水田跡も見つかっています。稲作で使った道具の他に、野山で狩りをするための弓、やじり(矢の先に装着し、獲物に突き刺さる部分)、調理具(敲石・スクレイパーなど)も展示しています。
調理や盛り付けの必需品である土器にも様々な形があり、用途によって使い分けていました。また、同じ種類の土器でも時期によって形・特徴が違うため、見比べることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三、住

青谷上寺地遺跡に住んでいた人々は、ムラを広げ発展させると共に、災害から守るためにも大規模な土木工事を行いました。この土木工事で行われたのが大量の建築部材の再利用です。弥生時代最長の垂木や屋根材なども出土し、当時の建築技術・木材加工技術の解明に役立っています。鳥取県立むきばんだ史跡公園(鳥取県西伯郡大山町)にある復元建物は、青谷上寺地遺跡から出土した建築部材をもとに復元されました。
ここでは建築部材の他、鉄斧や石斧・鑿(のみ)など木を加工する道具も展示しています。また、弥生時代は大陸から鉄が伝わった時代です。このような貴重な鉄製品を当時の人たちが再加工して大切に使用していたことがわかる資料も展示しています。

 

 

 

 

 

 

四、交流・祭祀・争い

交流・祭祀(さいし)・争い。どれも、青谷上寺地遺跡を語る上では欠かせないものです。
出土した遺物の中には、他の地方で作られたものや特徴をもつもの、他の地方からもたらされた材料などがあります。逆に、青谷上寺地遺跡が位置する因幡地方の特徴を持つ土器が他地域の遺跡で見つかっています。これらは、青谷上寺地遺跡の人々が他の地方と交流していたことを教えてくれます。中国大陸・朝鮮半島・九州地方・近畿地方・北陸地方・中四国地方とその範囲は広く、直接あるいは間接的に交流をしていたと考えられます。
祭祀遺物には動物の骨、形代(かたしろ)、盾などを展示しています。吉凶を占うために使われた卜骨(ぼっこつ)や生贄(いけにえ)として捧げられた動物、人や動物・武器の形をした形代、渦状の模様がある赤い盾、動物が描かれた板やサメが描かれた土器など、色々なものがあります。箱作りの琴も出土していて、祭祀で使用されたものと考えられます。
100人分以上の人骨も出土しています。一部は埋葬されていましたが、少なくとも109人分はムラの東側の溝から打ち捨てられた状態で見つかりました。さらに、その中の10人分以上は武器で傷つけられた痕がありました。銅鏃(どうぞく)が刺さった骨盤の一部も見つかり、これは銅鏃が弥生時代に実戦用の武器として使われたことを示す国内初の資料です。これらの殺傷人骨から、この地で何らかの争いがあり、大人も子どもも、男性も女性も巻き込まれたことがわかります。しかし、どこと、誰と誰が争ったのか、何のために争ったのか、ということはわかっていません。
この溝から出土した3点の頭蓋骨に、国内初・最古となる弥生人の脳が奇跡的に残っていました。ここではこの脳のレプリカと、断片の一部(実物)を展示しています。
また、現在、鳥取県・国立科学博物館・国立歴史民俗博物館が共同で行っている弥生人骨DNA分析の中間結果もパネル展示しています。そこでは青谷上寺地遺跡には多様な渡来系弥生人がやって来ていたことが触れられており、この青谷上寺地の地が、日本海を行き交う人々の交易の拠点であったことを示唆しているように思われます。

 

 

 

 

手前左から

備後北部系の土器

美作系の土器

近畿北部系の土器

近畿系の土器

 

 

 

 

挑戦半島系無文土器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東端に掘られた溝から100人以上の人骨が出土している


 

 

 

一部は埋葬されていたが、少なくとも109人文の人骨は溝の仲に打ち捨てられたような状態で出土

 

その中には鋭い刃物で傷つけられた骨が10数人分見つかっている

 

 

 

 

 

 

 

 

女性(壮年前半・縄文系・M7a)

 

 

 

 

男性(壮年後半・D4b)

 

 

 

女性(壮年前半・D4b)

 

この人骨には脳が残っていたそうです。

 

 

 

 

脳の断片

 

出土した人骨のうち3点の頭蓋骨に脳が残っていた

 

 

古代人の脳としては日本最古の脳であるばかりか、世界中に見ても数例しかない貴重なもの

 

 

 

 

 

 

男性(壮年後半・B4)

 

この人骨にも脳が残っていたそうです。そして耳をよく見ると、

外耳道骨腫があることがわかります。

 

 

 

 

 


 

こちらは眼窩櫛といって、眼球上方の骨に小さいくぼみやでぱっりが見られる。

 

小児期に貧血を起こした際の病変とされ、栄養状態がよくなかったことが考えられるそうです。

 

 


 

私は人骨の展示が好きなので、じーっと見ていると隣で見ていた方に声をかけられました。

 

「歴史のほうですか?医療のほうですか?」

 

意味がわからず、ちょっと間を置いて歴史のほうですと返事をしました。

 

 

話しかけてきた方は病理学に興味があるそうで、こういった人骨を資料館などで見学するんだそうです。

 

 

 

歴史資料館て、歴史に興味がある人ばかりが見学に来るんじゃないんだなあと驚いていると、思い出したことが。

 

「遺跡や出土物は考古学者や歴史学者だけでなく、多角的に研究しなければならない」

 

何かの考古学講座で教えてもらったことを思い出しました。