宇都宮市大塚古墳・長岡百穴古墳  | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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大塚古墳入り口。とってもわかりやすくて嬉しい照れ まあ、古墳が見えてるけど・・・

 

 

わかりにくかった看板はこちら。

 

 

 

 

大塚古墳

 

径53mの円墳

 

二段構成

 

高さ3.4mの第1段の上に高さ2.8mの第2段がのっている

 

 

墳頂は約9mの範囲が平坦になっている。

 

周溝は一部破損しているが、北西から東側にかけて残存し、その幅は約6.6m、深さ約1.3m

 

築造時期は6世紀後半

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついでにオオジノ古墳へ。奥へ入っていきます。

 

 

 

 

オオジノ古墳群

 

古墳時代後期の古墳群で、現在9基の円墳が確認されている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在位置のあたりから撮影。←横着(笑) さ宇賀に9基全部は見えませんでした。

 

 

 

 

 

長岡百穴古墳 

 

現在は52穴が南を向いて開口している。

 

これらの横穴の基本形態は、羽子板型の玄室から玄門を経て直接前庭部続くもので、羨道に当たるものはみられない。

 

玄門には、扉石をはめ込んだとみられる切込みがあり、現在はないが、当時はほとんどの横穴に扉石があったであろう。

 

 

 

 

 

長岡百穴(うつのみや遺跡の広場資料館)

 

 

 

長岡百穴(うつのみや遺跡の広場資料館)

 

 

うつのみや遺跡の広場資料館には、なぜか長岡百穴納品模型が2つあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長岡百穴古墳の52の穴には、室町時代の作といわれる観音像が刻まれています。

この百穴と観音様には4つの民話が伝わっています。


①第10代の崇神天皇の皇子でありました豊城入彦命が東方征伐の途中、長岡の地にこられた時、付近の豪族の強い抵抗にあい、容易に征服できず大激戦になりました。
この戦いで、皇子の主だった家来百人ほどが戦死してしまいました。悲しんだ皇子は長岡百穴に遺骸を手厚く葬ったといいます。


②弘法大師が大谷に来られたおり、これより東方2里ほどのところに長岡という村があり、そこに豊城入彦命の家来衆百人の墳墓があると聞いてさっそく長岡の地を訪れてみました。
すると墳墓は、ツタやカズラが生い茂り荒れ果てていました。
大師は驚き、さっそく雑草を切り払い掃き清め、百人の御霊を祀るため露出した各穴の奥の壁に観音像を刻まれました。
そして、長岡百観音寺を建立し、手厚く弔われました。


③百穴の観音像には、弘法大師一夜の作という伝承があります。
大師は99体の観音像を彫り終わった時に一番鶏が鳴き、夜が白々と明け始めてしまったため、100体目を刻むことなく立ち去ってしまいました。
里の人達は、未完成の100個目の穴に石の観音像を安置しました。
この観音像は、今も存在し、元観音と呼ばれています。


④昔、百穴には百観音寺という立派な寺院があったということです。
しかし、この寺は次のような理由で廃寺になってしまったと伝えられています。3代将軍徳川家光の時、江戸城(えどじょう)内で諸大名を集めて「長岡百観音寺」の由来についての芝居が上演されました。
家光は、宇都宮城主に観音寺について尋ねましたが、城主は領内にそのような寺はないと答えてしまいました。
宇都宮に帰った城主は、家老から長岡に百観音寺が存在することを聞いて驚き、一夜のうちに寺を焼き払うと共に、村人に観音寺のことは口外してはならないと申し伝えたといわれています。

とちぎふるさと学習より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百穴観音堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コマユミを見つけました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この像は弘法様かしら?観音像ではないですね。

 

不思議なのは後ろの鳥居。これはどういった意味があるのでしょう?