「馬来田の国をめぐる」ツアー、次は率土神社へ。
率土神社
祭神埴安姫は天竺(インド)摩伽陀国磐古帝の后であったが、磐古帝の悪政によって国が乱れ、人民に国を追われて七人の王子と家臣大朝臣清麻呂とともに養老二年(718)に日本に漂着した。
時の元正天皇のよって京に迎えられた后は、東国の民を鎮める為に下向した。
天豊媛命と名を賜り、養老二年四月に京を発し上総国望陀郡飫富の里に着いた。
土地の人々に迎えられた后は、神納の地に社殿を建てて住みつき天平二年(730)に六三歳で没した。
聖武天皇は大明神埴安尊と尊号を下された。
石祠群
率土は「そっと」と読むのだそう!読めませんよね。陸地の続くかぎり・国の果て。
六社神社
疱瘡神社
稲荷神社
大杉神社
金毘羅神社
淡島神社
愛宕神社
率土の意味は「陸地の続くかぎり・国の果て」。その意味が解る場所へ行ってみましょう。
三の鳥居を出て、二の鳥居へ。光に包まれて「率土」の世界へ(笑)
「率土」の世界へようこそ
標高約31m、何も遮るものがないので、眺めがすごくいいんですよ~~~。
埴安姫もこの景色を眺めて、傷心をいやされたのではないかと思います。
二の鳥居
三人で
ここには数基の古墳があります。
率土神社南古墳
昭和五十年の埋蔵文化財分布調査で、上円下方墳(上段が円形で、下段が方形の古墳)と考えられていましたが、昭和五十三年の東洋大学考古学研究会の測量調査で、下段は直径三六メートル、高さ一メートル、上段は直径二四メートル、高さ三・五メートルの二段構築の円墳の北西側に幅六メートル、長さ七メートルの張り出し部をもつ帆立貝式前方後円墳ということが判明しました。
また、墳丘の周辺からは、円筒埴輪(古墳の聖域を示す埴輪)の破片が採集され、この埴輪の型式から、古墳の築造年代は、六世紀の初頭と考えられています。
中辻台古墳
解説板には載っていたのですが、名前は不明。
1基以外はフェンスがあって近寄れませんでした。残念