富津のいわれ | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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富津岬の南側にある布引海岸。うっすらと富士山が見えます。

 

 

ヤマトタケルが相模から上総へ船で海を渡ろうとしたとき大嵐にあい、海神の怒りを鎮めようと妃のオトタチバナヒメが入水。

 

その時に身に着けていた衣がこの海岸に流れ着いたので、布引海岸と名がついたそうです。

 

富津市の名前も、「布が流れてきた津」が「布流津」になり、 「富津」 と変化したそうです。

 

 



 

 

 

日本書紀にはこう書かれています。

 



(ヤマトタケルは)相模に進み、上総に渡ろうとした。海を望み声高に言った

 

「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」

 

ところが海の中ほどまで来たとき、たちまち暴風が起こって船があちこち漂い渡ることができなかった。

 

そのとき皇子につき従っておられた妾がいて、名はオトタチバナヒメという。

 

穂積氏忍山宿禰の娘である。

 

皇子に申されるのに

 

「今風が起こり波が荒れ、船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の代りに海に入りましょう」

 

そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海に入った。

 

暴風はすぐに止んで、船は無事岸についた。

 

その頃の人はその海を名づけて、馳水といった。

 

 

 



馳水(走水)は、今の東京湾浦賀水道のことです。

 

 

 

 

 

布引海岸から北へ600mには、流れ着いたオトウトタチバナヒメの衣が奉られているという「貴布祢神社」があります。

 

 

貴布祢神社

 

御祭神:高龗神

 



 

 

 

狛犬

 

 

 

狛犬

 

 

 

 

 

拝殿

 

 

 

 

 

本殿

 

 

 

 

本殿

 

 

 

 

 

 

どこに「布」は祀られているんでしょうね~。

 

 

 

 

 

 

 

いくつか小さな祠があります。

 

 

 

 

この祠を見て、なぜか竜宮城を想像してしまいました???

 

 

 

 

 

いわし供養塔が参道の両側に1対。まるで狛犬のようです。

 

 

 

 

 

イワシを天日に干した肥料・干鰯は、戦国時代から近代まで使用された。

 

江戸時代には、房総半島が一大生産地となり、関東一円の農業生産を支えた。

 

 

 

 

富津も、浦賀や江戸に干鰯を送る港として栄えたようです。

 

 

 

 

 

これは何でしょうか?潜水業者が奉納したようですが??調べたところ、「潜水漁」というものがあることがわかりました。

 

 

 

潜水漁

潜水士は「カブト」と呼ばれるヘルメットをかぶり、宇宙服のような布にゴムを貼り付けた潜水服を着用して海中に潜る。

 

潜水士のヘルメットには空気筒が連結されており、海上の船に据えられた空気ポンプから、この空気筒を通してヘルメット内へと空気が送り込まれる。

 

浮力で体が浮き上がらないようにするため、重い潜水靴を履き、胸には鉛製の錘を掛け、全部で60kgの装備になる。


主にアサリ・ミル貝などの二枚貝が獲れる。

 

 

 

 

非常に危ないので、許可された人だけができる漁であることがわかりました。けれども、この碑についてはわかりませんでした。

 

 

 

 

 

貴布禰神社の周りにいくつかの神社があるため、次回ご紹介しますね。