古代の日本は六十六の「国」に分けられていました。それぞれの国には「国司」が中央政府から派遣されました。階級は、守・介・掾・目の順です。
長官である「守」は都の中流貴族が任命されました。
上総・常陸・上野国は、「守」は皇族が任ぜられる「親王任国」です。「上国」といわれます。なので次官の「介」は、他国の「守」と同じ地位なります。
織田上総介信長・吉良上野介義央も「介」ですね。
もっとも親王任国制が始まったのは9世紀からなので、その前には貴族でも上総守に任じられました。大伴家持などがいます。
更級日記の作者の孝標の官職は「上総介」。後には「常陸介」も務めます。
では、上総の「国府」はどこにあったのか?
上総国分尼寺跡
わかりません💦
国府・・・国衙を中心とする都市城のこと(府中ともいう)
国衙・・・行政機関のこと(国庁ともいう)
上総国分寺・尼寺は国府や総社とセットで建てられるのが通例といいます。上総国分寺・尼寺の跡は見つかっているので、同じ台地に国府があったと考えられています。
国府推定地は4つ、「郡本説」・「能満説」・「市原説」・「村上説」があるのですが、最近の発掘調査から「市原説」が有力のようです。
先日遺跡をまわってきたので、上総国分寺・尼寺の跡から近い場所からご紹介しますね。
上総国分寺・尼寺の跡から北東へ約1kmに、稲荷台古墳群があります。稲荷台1号墳が3分の1で復元されています。
王賜で始まる始まる銀象嵌の銘文が書かれている「王賜銘鉄剣」が出土しています。5世紀中ごろなので、これはまた別の機会に・・・
この辺り一帯は「稲荷台遺跡」といって奈良・平安時代の遺跡も発見されています。
「貞観十七年十一月廿四日」を記した墨書土器が出土。
掘立柱建物跡が整然と配置されていることや、
緑釉陶器・灰釉陶器が多数出土することから、
政治的な施設だったと考えられている。
この東側に、南北に古代の道路が通っていることも発見されました。左から右へ、白い車が走っている辺りです。
古代道は、現在の297号(大多喜街道)の一部と21号(稲荷台通り)の一部を、ほぼ平行に通っています。
297号を古代道のつもりで北へ向かいます。振り向いて北から南を撮りました。看板の右手が古代道が発掘された場所です。
この道を北に行くと、「郡本」があります。
稲荷台1号墳から約1km北にある郡本八幡神社。
狛犬
拝殿
なんだか倉庫のような拝殿です。
本殿
建て替える前は、拝殿もこんな朱い色をしていたのではないでしょうか?
ご神木のイチョウ
大宮大権現
大宮大権現は、どうやら伊弉諾命(垂迹は虚空蔵菩薩)のことのようです。
ごめんなさい、名前を調べませんでした💦
あとでわかったことですが、写真左下の大きな石は、大型掘立柱建物の礎石とされるそうです。
気づいてたんですよ💦なんだか気になる石だな~って。
拝殿が新しいので、その前の拝殿の礎石かな~、そこまで古くないよね~、せいぜい明治だろうね~、なんて思いながら通り過ぎてしまったのです。
アップで撮っておけばよかった。
郡本八幡神社周辺は市原郡家の比定地とされているんですよ。「国」を県としたら「郡」は市にあたりますね。「国」には中央から国司が任命されますが、「郡」は地方の有力な豪族が郡司に任命されます。
郡本遺跡
千葉県文化財センターと市原市文化財センターが部分的な発掘調査を実施。
奈良時代以降の竪穴建物跡・掘立柱建物跡・井戸跡・溝跡など。
現状では郡衙・国衙などを直接捕捉したとは言えないが、
何らかの重要施設が含まれることは確実。
出土遺物から古代末期から中世前期にわたる国衙機構の変遷が知れる可能性がある。
鳥居の反対側には正面金剛。
郡本八幡神社の北東には、「古甲(ふるこう)」「古光」などの小字があります。「こう」=国府!?(千葉県市川市には「国府台」という地名があり、国府推定地になっています)
ここも上総国府推定地の一つとされています。
この後は、2つ目の国府推定地「能満」東から北東へ向かいます。