「最後のニュース」/すごく長い補足 | ストイックタンタン(仮)

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昨日投稿した新企画「最後のニュース」に関して、補足をしておこうと思います。
長すぎると読まれないことを気にして短めにまとめてみたものの、
少々かいつまみ過ぎて、伝わらない部分が多々あったようなので。

ということで、今回の記事は少々長くなります。
お読みになる方は、お時間のある時で結構。
始める前から誤解を受けることはなるべく避けたいので、
読まれる読まれないを考えずに、
とにかく伝えきることだけを考えて、書きます。






「最後のニュース」の一番の目的は想像することであって、

事実を描くことではありません。

ということがどういう意味であるかを、説明させて頂きます。



実際に起こった事件を基に書くということは

「その事件から着想を得た」話を書くということであって、

「その事件自体の」話を書くことではありません。

その事件の関係者の方々の心情や背景を想像して

そのままに書くことではないのです。


例えば足立区で起こった通り魔事件から着想を得て

「最後のニュース」の中で話を書くとして

その事件が起こった場所、一連の出来事の詳しい背景や被害などを

実際に起こった通りになぞらえて書くことはありません。

そして着想を得た事件が実際どのような事件であったかを書くこともしません。

完全に事実とは違う話を書きます。



これから後述するこの企画の芯の説明のために今のうちに補足致しますが、

着想として扱う事件は全て事実関係だけ伝えられて終わってしまうような、

とても「小さな」事件を扱います。

凄惨さが大きく、一面記事に報じられるような事件は一切扱いません。

仮に扱ったとしても、その事件が着想にある話だとわかってしまう形にはしませんが。

とにかく「着想を得る」段階で実際に起こった事件を扱うだけであって、

私が書く話自体は事件の発生場所などいかなる事実とも全く別物である

ということをまずご理解頂ければと思います。

実際に起こってしまったことをそのまま話の骨組にすることはございません。

何がどうなろうと、被害者の方々が

ご自身が体験した事件を基に書かれている

ということに気づいてしまう要素は、一切持たせません。





「それでは最初から創作として書けば良いのではないか」




という疑問は当然浮かんでくることでしょうが、

その地点にこそ、この企画の芯があります。




先ほど敢えて書いた、「小さな」事件ということ、

私が「脚本という嘘を作る」人間であると同時に、

皆様と同じく「何かを観る」人間であるということ

についてお話します。



昨日の記事にも書きましたが、

報道というものは、本来的な性質としてニュースに大小を生んでしまう構造をしています。

その事件に巻き込まれた人々の多さやその凄惨さなどが度を越している場合、

大きく報じざるを得ないのです。

たとえ「ニュースに大小など無い」という使命感のもと、伝えていたとしても。

大きなニュースに関してはコメンテーターの人々などが議論する時間も充てられ、

そのニュースを観る人々が何かを想像したり議論する形は与えられるものの、

いわゆる小さなニュースというものは事実関係を伝えられるにとどまり、

その背景に関することも、その事件に関する識者の一言も報じられることも無いのです。

その小さなニュースを観る人もこれといって議論も出来ないまま、大体40秒で終わります。



一つの殺人事件が、遺体をバラバラにされて警察署に送り付けられたという内容で、

もう一つの殺人事件が被害者宅にて包丁で刺されて誰かが殺されてしまった事件。

という二つの殺人事件が仮に同時に起こったとして、

大きく報道されるのは一つ目の事件であって、

二つ目の事件は少なくとも一つ目程の大きさでは報道されないということです。

「どこかの人間が一人殺された」、という事実自体は変わらないにも関わらず

一つ目の事件はその凄惨さをやたらとコメンテーターの人々に議論され、

二つ目の事件はアナウンサーが原稿を読み上げるだけで終わってしまう。




報道とは「事実を正確に伝える」ことが仕事であって、

この大小が出来上がってしまう構造を否定したり批判する気はありません。

私が生まれる前からそういう形なのですし、

何十年かの試行錯誤を経て現在の形に落ち着いているはずなのだし、

その形を更に良いものにしようという意識も常にお持ちのはずですから。

実際報道の場で多少は働いた上で、その点に関しては信じられます。

勿論失敗はこれからもあるかもしれませんが。



同じ事実であるにも関わらずどうしても生まれてしまう「大小」を作らないには、

観る人々が感じてしまうその「大小」を無くすにはどうすれば良いのか。

とりあえず至極単純に考えてみましょう。



二つの大きさの違う泥団子の大小の差を無くすにはどうするか。

二つの方法があります。

大きい団子を削って、小さい団子と同じ大きさにするか

それとも

小さい団子に泥をつけることで、大きい団子と同じ大きさにするか、という二つ。

小さい団子に泥をつけつつ大きい団子を削る、という方法もありますが

敢えて考慮しません。手間がかかりすぎるので。

小さい泥団子には、新たに泥を塗って固めて大きくすれば良いのです。

そしてこの泥団子の構図をそのまま引用するのであれば、

泥団子を作る人はニュースや映画などどのような形であれ何かを発信する人々、

泥団子を観る人は、それを観る人という形になるわけです。

私は確かに泥団子を作る人でありますが、同時に泥団子を観る人でもあります。

新聞を読む、ニュース番組を観る、映画を観る

ということは作る人である私でも日常的に行うこと。




同じ事実であるのに大小がついてしまうニュースを観るときに、

どうしても出来てしまう大小に目を曇らすことなく

その二つが同じ事実であることに気づく方法として

小さなニュースの事実関係から観る人が「想像する」

という方法があるのではと私は思います。

小さな泥団子の表面に泥を塗って大きくするように、

小さなニュースの事実関係から、

伝えられない背景を想像することで、

事実に見合った大きさにする、ということ。

その行為が「最後のニュース」で私が行うことです。


その想像は単に私の作品の公開の形、

つまり「創作活動」になってはお読み頂く方々の印象も違ってしまいますし、

それが仮に賛辞を受けてしまっては私としても不本意です。

「最後のニュース」において流れる「嘘のニュース」は、

一度観る立場としての私を介してから行われなければ、

本質から外れてしまうことになるのです。

私が書く嘘のニュースが実際の事実からどれほどかけ離れようとも、

そのニュースが一度「観る人」である私から端を発して生まれたものである

ということが重要なのです。



自分の半径3メートルには関係無いような小さなニュースを、

事実関係に合った大きさにするには

「想像」することはただただ観る人にも簡単に出来る、有効な方法なのです。

その方法を、私は「最後のニュース」という企画の中で書き続けます。

脚本や映画という嘘を作る人間であるという側面と、

何かを観る人であるという側面、二つを生かすことで。




そして最後に、

実際に起こった事件が「無かったことになる」ということ。

書き方が悪かったです。

違う表現をするならば、

どうしたらその事件は起こらなかったのか

ということであり、その過程を書くということです。

その過程において何よりも重要なのは「優しさ」や「寛容」であって、

その実行者として実際には存在しない男、

白木一郎がいるのです。


読む人を喜ばせる文章にしてしまうことは、この企画の本意ではありません。

想像すること、優しくあることについて考える機会を作ることがこの企画の目的です。




このように説明すれば、伝わるでしょうか。

基本的に他人の不幸を食い物にしようとしているわけではありません。

ただ他人の不幸に大きさなど無いことを

そしてそのことを感じるには自ら想像することが必要であるということを

少しでもお知り頂けるようなものを、作ろうとしているのですが。