私の家庭は恐らく割と厳しくて
学習習慣から礼儀や教養や食事マナーや
基礎のきの部分は叩き込んできてもらってきて
大人になった今それに対する感謝を
いっそう強く感じていますが
その中で
「こうあるべき」と
「そういうものだから」という言葉と共に
『常に正しくあること』も要求されてきました
それが誰にとっての、どこで通用する
『正しい』かは分からないけれど
かたや彼は
割と放任主義の家庭で育ってきていて
私は彼の言動に時たま腹が立ってしまうんです
それは私が受け取った時に傷ついたからだ
という時もあるけど
私が思う『正しい』から
はみ出していたというだけの時もあって
そういう時難しいよな、と思います
親から教えられてきたそれらを
正しいと信じて育ってきた私は
正しくあるためにしてきた努力が
意味あるものだったと
思いたくなってしまうんだろうな
少なからず
『私はそうして我慢してきた』
『だってそれが正しいから』
という気持ちもあります
そうして我慢したから
伸び伸びしている彼が
羨ましくて妬ましいんだと思います
じゃあ今の私がきちんとした人間かと言われたら
全然そんなことはないです
彼の方が出来ることもいっぱいあるし
『ねばならない』の呪縛のせいで
今の私にはできないこともいっぱいあります
じゃあ伸び伸びすればいいじゃんとも思うけれど
信じてきた『正しい』からはみ出すのも
罪悪感が強くて簡単ではありません
こんなことしていてはいけないのに
という気持ちに取り憑かれてしまうんです
本当のことを言うと
一緒にご飯を食べに行って
彼の食べ方に思わず苦笑いしたこともありますし
その作法だと
私の両親の前でやったら顔しかめられるよ…
みたいなこともあります
窘めたことも何度かあります
マナーの部分は
私としては
ちょっと一緒に頑張ろうかという気持ち
でも、その代わりに私は
彼から自由になる方法を
沢山教えてもらっています
遊び方も、外への飛び出し方も、世界の広げ方も
私の知らなかったことを
沢山教えてくれているのは間違いなく彼です
『ねばならない』の呪縛は
人のキャパシティを狭くするな、というのも
彼と付き合ってよく分かりました
世の中には『ねばならない』ことも
確かにあるけれど
それが本当に『ねばならない』のか?
その呪縛で自分や他人を苦しめているのでは?
と一歩引いて考えることが増えました
そんなことを考えながら
今日も彼とお話しています