多様性を実現するということは

顔も見たくないほど嫌いな人間の存在も

否定しないことだ


というような言葉をどこかで聞いて

確かにな、と印象に残っている。



マイノリティにいて苦戦していると

「自分を受け入れてもらう」ための理解は

切実に訴えるけど


別のマイノリティ、もしくは

属性で括れば同じだが

相容れないと感じている

考えを持った人への理解を

あっという間に落としてしまう

みたいなこともままある。


余裕がないと

違いを想像することを忘れる。



主語は私。

私がそうだった。


でもきっとそれは

世界で私だけがやっていることではない。

気がしている。から言う。



障害者のコミュニティに

当事者として参加すると

あの障害も、この病気も、あんな性格も

全て横並びに“当事者”にされる感じがある。


それを「そういうもの」と思える時もあれば

ほとほと疲れてしまうこともある。


同じだと思われたくないと思う時も

同じになれないから苦しいんだと思う時も

どっちもあった。



誰かにとっては理解できない私を

そういうものとして受け入れて欲しいなら

私にとって理解できない誰かもまた

そういうものとして置いておく。


理解は、多分そうやって循環してる。



少し話は変わるけれど

ルールやマナーは

社会の秩序を保って

それぞれが安心して

気持ちよく過ごせるように存在している


と私は理解している。

皆さんにとってはどうだろうか。


その場所で設定されたルールやマナーは

ある時はペナルティが付き、明文化され

ある時は暗黙知として存在していて

それらは大体その場所で

“普通”として扱われる。



マイノリティは

マジョリティじゃないからマイノリティで

社会では大抵マジョリティの感覚が

“普通”として存在している感じがする。


これもまた“普通”。

さっきとは違う意味だけど、“普通”になる。


人が“普通”を思い浮かべる時

大抵の場合は

前者と後者を混同したまま

“普通”と言っている感じがする。



後者の“普通”はこだわらなくていいけどさ

多分前者の“普通”は

社会で生きていくために

安心して過ごせる社会のために

適応しなきゃいけない“普通”なんだと思う。



ルールやマナーに沿った行動を選ぶのが

特性上難しい人も世の中にはいて

でもその人たちがじゃあ

否定されるべき存在かと言うと

それは飛躍した論理な気がする。


なんか嫌、好きになれない。


でも存在していい。

存在を否定されていい人なんか1人もいない。



もちろん、顔も見たくない人に対して

持っている感情が

こんな小難しく考えた結果

理屈っぽく結論が出てるものばかりでもない。


単純に「なんか合わん」と思う人もいるし。


でも、置いておく。


誰かにとって

顔も見たくない存在かもしれない私も

ここにいてもいいように。


そうあって欲しいから

そうできる人になりたいなと思う。



何言ってるんだろうね。