常日頃ブログでも書いているように
私は障害者が社会で健常者と差異なく理解され
当たり前に権利を獲得できるようになって欲しい
と思っていますが

それは健常者として生きている方からの
歩み寄りだけではなく
私のように障害者として生きている人間からも
歩み寄りが必要だと思っています


そして、
理解してくれない人が悪いだけでは無い
とも思っています

今の社会のシステムが
障害を抱える人達にとってあまりにやさしくない
改善を求めたいと思う気持ちを
私達がそれぞれの立場から見えてる景色として
言葉で伝えていかなければならないと感じます


それから、それとは別として
障害特性故配慮をお願いしなければならない時
私たちはそれに対して
絶対に「してもらって当たり前」という立場で
それを享受してはいけないですよね

それは“人”として
『ありがとう』と『ごめんなさい』を
惜しむ理由にはならないから

権利を主張しようと思うのなら
そこに発生する義務も
きちんと抱える覚悟を持たなければ
いけないと思います

人によって出来ることの範囲は
異なるかもしれませんが
社会で生きる一人の人間として
役割は果たさなければなりません


当たり前ですが
それが障害特性であれなんであれ
人を傷つけることは許されることではありません

人にやさしくあれない人は
それが健常者であろうが障害者であろうが
最後は人が離れていきます

その時離れていった人を
「障害に対して理解がない」と
責めることがあってはならないと思います

その人が傷ついた事実自体を
否定することがあってはならないのは
みんな同じです

障害をそんな形で盾にしてはいけないし
して欲しくもないと思います


私の父はアスペルガー症候群ですが

障害特性故に難しかった感情のやり取りから
絡まりもつれた結果
過ごしたあの悲しい日々に
彼の特性だというだけで
理解を求められ続けていたら
私は息の仕方を忘れていたでしょう


私も今使ってしまっている
健常者、障害者という言葉でさえ
そこに横たわる社会的な差異を
反映しているように感じます

そこに差異なく
権利も義務も
それぞれができることをできるように
みんなにとってやさしくあれたらなと
思います