先日、
久しぶりに友達と電話をする機会があって
ゆっくり話をしました


大学生のその友達は
すごく勉強を頑張っていて
少し頑張り過ぎてしまったみたいで

“勉強”にとらわれて
身動きが取れなくなってしまって
精神的に煮詰まっていたようで

話を聞きながらお互いに
ああでもない、こうでもないと
言っていたのですが

最終的には笑って話が出来るようになって
『もう!
生きる希望が見えちゃったじゃん!』
と謎に怒られました(笑)


その日の話の中で私が友達に言ったのは

死にたいと思っちゃうのは仕方ないけど
死ぬ前には私に遺書を提出してね
理由があまりにもしょーもなかったら
再提出だからね

…です


今これを聞いて
なんてこと言うんだ
と思う方もいらっしゃるかもしれませんが

ここに至るまでの
話の流れもあってのことで

全て説明するのは難しいので
思うところがあっても
とりあえず目を瞑って頂きたいです


本当に感情が煮詰まると
ストレスを感じること全てが
希死念慮を煽る感覚は
私も感じたことがあるので
私なりに理解できますが

じゃあそれが本当に死ぬことでしか
解決できないかと言えば
大抵の場合はそんなことないんですよね


人生取り返しのつかない事実は
そうはありません

それは当事者ではないから言える
ということもまた分かっていますが

それを乗り越えて
『あの頃は大変だった』と
言えるだろうと思えるのに
未来を投げ出してしまうのは
私は、悔しくてたまらない


勉強は生きていくための手段であって
人の価値を決めるものではないのだから
生きていく最低限の知識があれば
それ以上はできなくたって
いくらでも生きていけます

テストの点数が良くなかったところで
死ぬほどのことなんか全くない
と私はとっても思うし

点数が気になるなら
残しておいたって仕方ないから
破り捨てちゃえばいいじゃない?って


友達に

自分の人生最期の理由に
『テストの点数が悪かったから』
はちょっとダサくない?

と言ったら
『確かに…』と笑っていました


これが適切な考え方かどうかは
分かりませんが

少なくとも友達にとって
それが“死ぬほどのことではない”と思える
ひとつの理由になったのなら
それは有意義だったかな、と思います


でも、

それでも
どうしようもないこと(理由)だったら?

と言われたのに対しては

そしたら死ぬ前に私と遊ぼう
と伝えました



私は、
死にたいと思う気持ちを
全面否定するつもりはないです

生きていれば
死にたいと思ってしまう時もあります

だからそれを肯定するつもりも
全くありませんけどね


でも『死んじゃダメだよ』と言うつもりも
またありません

私は死んで欲しくないことを伝えて
辛い気持ちから抜け出す方法を
ない知識を絞って
私なりに一緒に考えたいなと思います


進んで死ぬことを選ぶ人は
少なくとも今の私は知りません

どうしようもなく湧いてくる感情を
否定はしたくない

でも肯定も絶対にしない


耳障りのいい適切とされる言葉だけが
人の感情を救うとは思っていないし

誰かが聞いたら信じられない言葉でも
それで目の前の人が救われるなら
それはひとつの意味ある考え方だと思うから

私はそれを『ダサい』と笑ったし
遺書をそれを伝えるための
ツールとして使いました


目の前の人を救うのに
絶対的な正義ばかりが
通用するわけではないと思うと

人を救うのは
正義の味方ばかりではないのかも