「いい人」であることが周りにとって当たり前になると、そこには感謝なんかなくて単なる便利屋としか認識されなくなる。そして、便利屋として思うように動いてくれないと怒り出す人すら出てくる。ひたすら理不尽な話ではあるが、いい人になりすぎるのは危険。自分を安売りしない方が丁重に扱われる。(@sakuoboe -by Twitter)




“当たり前”の存在になるって

想像以上に怖いことなのかもしれないな

と、最近思う


自分にとっては

神経をすり減らすほどの配慮の結果でも

それが日常の中で繰り返されることになれば

それが基盤になってしまうわけで



気配りができ過ぎる人より

程よく気配りができる人の方が感謝される

というのを以前見たことがあって


どういうことかというと、

例えば電車にお年寄りが乗っていて

それに早く気が付いて

そもそも座ることを選択しない人より

遅れて気がついて席を譲る人の方が

目について直接感謝をもらえる、という法則



これは最初の文章とは

直接の関連性はないけれど


そう考えると優しさって

思っているよりずっと

目に見えないものなのかもしれない



いい人は『都合のいい人』にもなりやすくて


この人はこのくらいしても嫌な顔をしない

と判断されることが多いのは

私自身が周りの顔色を伺って

行動を選択するタイプだから

すごく感じてきました


嫌な顔をしない基準が出来上がって

でも本当は嫌なんだ、と訴えたくても

今まではなんとも言わなかったのに

が先にくるのは

理不尽だけどとてもよくある話です



優しさは

自分に配ることも

やっぱり忘れちゃいけないんだな


と改めて思いつつ

なかなか難しい私です…