世の中で“勉強が出来る”というのは
ひとつのステータスとなっていますし
出来るに越したことはありませんが
勉強が出来る、出来ないって
自分が思っていたより
大した問題ではなかったのかもしれない
と最近改めて思っています


私は、勉強は
“目的”ではなく“手段”だと思っているんです

勉強をすること自体が目的というよりは
何かを得る為の手段

例えばそれは将来の夢だったりね

だから極論を言えば
自分の得たいものの為に
必要な勉強を必要なだけすればいい話で
それが通知表や学歴に反映されなくたって
手に入れたいものが手に入れば
それで十分価値あるものだと思うんです


だから“勉強が出来る”こと自体は
ひとつのステータスだけれど
逆を返せばあくまでステータスでしかなくて
それは人の価値を推し量るものではない
というのが私の持論です

これ自体は
以前から繰り返し言っていますね


勉強の出来る、出来ないって
勉強をするか、しないかも
もちろん影響しますが
元々持っている知的能力も大きいんですよね

だから、こんな言い方をしては
いけないかもしれませんが
どれだけ一生懸命勉強しても
限界はどうしたってあります


だけど、自分なりにでも
やった分だけ“必ず”成果として現れるのは
多分世の中で勉強くらいだとも思うんです

そのくらい勉強は顕著に
努力の成果が見える


世でいう“勉強が出来る”ステータスは
なくても生きていけます

もっと言えば
勉強より大切なことも
生きる為に必要な能力も
沢山たくさんあります

だけどどうしたって
生きていく上で最低限の勉強も必要です

そして“勉強”という手段から学ぶことは
必ずしも知識だけでもないんです


そう考えると勉強という手段も
なかなか奥が深そうです