「言った/言わない」のやりとり、というのがあります。
「俺はちゃんと言ったぞ。お前だって分かってたはずだろう。」
「いやいや、聞いたのはそんな内容じゃなかった。…」
どちらも嘘は言っていないのかもしれませんが、
言った側の意図が、聞いた側に正しく伝わっていなかった、
という事が起きて、こんなやり取りになるのだと思います。
会社などで時々あるトラブルです。
松下幸之助がどこかに、こんな話を書いていました。
ある日外出する先輩から、
「〇〇さんという人から電話があると思うから、
要件を聞いておいてくれ」と頼まれた。
その日ずっと注意していたが、結局電話は無く、
先輩も戻らなかったので、そのまま帰宅した…
これはNG!という話です。
電話がなかったとしても、例えば
「今日5時まで待ちましたが、〇〇さんから電話はありませんでした」
と、先輩にメモ一枚を残して帰らなければ
仕事とは言えない、(までは言っていなかったかもしれませんが)
そんな話だったと記憶します。
短いですが、
学生気分の新人に行動変容を迫るには、十分なメッセージでしょう。
“一枚のメモ”が想起させるものは、遅くなって事務所に戻った先輩が、
机の上のメモを見てうんうんと頷くシーンです。
そのイメージが思い浮かんでくれば、相手目線で捉えた世界が
無理なく意識に入ってきます。
冒頭の「言った/言わない」の争いは、こうした目線が内面化されて
いれば、かなりの確度で回避できるようになるでしょう。
このメッセージをパワフルなものにしている理由の一つは,
行動(しなかったこと)からの因果連鎖が示されていることです。
“電話番”という単発の役の完了に留めず、判断・行動が
生み出していくもの(=先輩からの信頼)を想起させるところに、
この話を印象づけるミソがあります。
そもそも現実の仕事(に限らず、どのようなこともそうですが)は、
様々な人々との関係性を含めた因果連鎖の中に
イメージされるものです。
この因果には、外側から見えて理解できるもの ― 例えば事故が
起きてすぐに対処しなければいけない、の様なものもあれば、
心の中に起きていて外側からは見えてこないもの ― 例えば
“彼はこの間頼んだ仕事を一所懸命やってくれたから、
ちょっと儲けを分けてやろうと思った“
の様なものもあります。
この外見で動く部分と、心の内側で動いている部分を、
連動させつつ丸ごと伝える表現の代表が“物語”です。
シンプルな表現でも、文脈丸抱えでメッセージを伝えられる
ところが、物語の特性です。
松下幸之助の話は、その好例でしょう。
昨今は多くの仕事がシステムへの依存を強め、テンプレートも
豊富に揃い、PCやタブレットを経由したやり取りが常態化して、
こうした話の出番が失われてきました。
ちょっと嫌がられそうな中で無理してでも語らなければ、
こんな話が聞こえてこないようになってしまいました。
これは大問題だと思います。
マニュアルや作業手順書で仕事を覚えるのは必要なことだし、
ああしろ、こうしろと、指示を受けながら覚える仕事も
確かに存在するでしょう。
しかし一方で、
こんなことが起きて、その時に俺はこうやって、そしたら
こうなった、
とか、
担当したお客はこういう人で、こんな風に難しい人だったけど、
あんなこと、こんなことやっていたら
段々買ってくれるようになった、
の様な因果連鎖を含んだ語り(=主観的な了解を含めた体験の語り)は、
仕事の質を高めるためにも、人を育成していくためにも、
もっと見直されなければいけないと思います。
証拠がある訳ではないのですが、
エリートが揃う中央官庁などでの「信じられないミス」の
かなりの割合が、
因果的了解の欠落によるのではないか、という気がします。