「わぁー!」

 私の通う高校を目の前にして、好花は子供みたいな声をあげた。別に校舎がでかい訳でもないし、新しくもないし、ただ制服

が可愛いということが評判なだけな、私と好花で一緒に行こう、と言っていた高校。私は裏口にまわって自転車を止め、校門を飛び越えた。好花も軽やかに門を飛び越えた。これで病気だって言うんだから、なんか、一周回って笑えてくる。

 私は昇降口には行かずに、校舎の裏側、ちょうどトイレの窓がある場所に行った。そして、女子トイレの横にある多目的トイレの窓を開けた。

「え?窓空いてんの?」

「うん。帰るときに開けておいた」

 夜でも、校舎の中には警備員がいるけれど、その人は男の人だから女子トイレ、しかも多目的トイレの中まで点検しに来るとは思えなかった。私の推測は大当たりし、私たちは校舎の中に侵入することが出来た。

「なんか、懐かしい匂いがするなぁ。来たことないけど」

 廊下に響かないように、好花は小声で言った。そしてなぜかくるくる回りながら歩いた。懐かしい匂いか。私にはわからなかった。

「どんな匂い?」

「えぇ~、よくわかんないけど、埃とか、チョークとか、木の板とか、多分そんな感じの匂い」

 やっぱり、よく分かんないや。

 私のクラスの教室にやってきた。電気をつけるとバレてしまうから消したままだけど、月が明るい夜だったから全然平気。いつもの教室だけど、好花が一緒にいるってだけで、なんだか楽しくなった。

「鈴花の席どこ?」

「真ん中のそこ」

 そう言って私が指差した席に好花は座った。そんなに楽しい?って思ってしまうほどニコニコ笑ってる。

「はい!先生!質問です!」

 ちょうど黒板の前にいた私に向かって好花は元気な声で言った。しょうがない、付き合ってやるか。

「なんだ、松田。言ってみろ」

「先生は、好きな人とかいますか?」

「はぁ?」

 予想していなかった質問に、私は面食らった。

「いないに決まってるだろ、バカ。それに、先生にそんな質問するんじゃない」

「えぇ~つまんな~い」

「うるさい」

「じゃあ、学校は楽しいですか?」

「…」

 夜の沈黙が、暗い教室に流れ込んで埋め尽くす。

「…楽しくないって、前にも言ったでしょ」

「なんでですか?」

「…なんでだろうね」

「勉強が難しいから?」

「別に、難しくはないよ」

「好きな人がいないから?」

「それはほっとけ」

「じゃあ、なんでですか?」

「…言いたくない」

「お願いです、教えてください」

 まっすぐに私の目を見る好花の目が潤んでいた。

「…あんたが、好花がいないからだよ」

 なんて、言いたくなかった。辛いのは、好花の方だって分かってる。

 神様、なんで好花なの?他の誰かでいいじゃん。

「好花がいないと、私はダメなんだよ」

「…はい、交代。次は私が先生役ね」

 そう言って、好花は私を無理やり椅子に座らせた。

「おほんっ。富田、ドナーって知っとるか?」

 おじいさんみたいな口調で放った言葉が、私に一筋の希望を生み出す。もしかして、臓器移植で、好花は助かるのだろうか。

「知っています」

「先生はな、臓器提供者として、ドナー登録した」

「…え?」

 希望は一瞬で消え失せた。

「へへっ。私の体ね、内臓は綺麗なままなんだって。だから、私がいなくなった後、この綺麗な臓器で救える命がいくつもあるんだ」

「でも、好花だって臓器移植で助かるってこともあるんじゃないの?」

「うぅん。私のは、内臓がどうとか、そういうのじゃないんだ。それに、私が望んで先生に言ったの」

「なんでよ。なんでそんなことするのさ!」

 私の声が教室に響いた。やば、警備員が来ちゃうかも、とかそんなことは考えられなかった。

「…私ね、初めて病気のことを言われたとき、思ったんだ。なんで、私なんだろう。なんで他の誰かじゃダメだったんだろう、って。世界の全てを恨んだし、友達が来ても、鈴花が会いに来ても、本当はイライラしてた。そのせいで夜はちっとも寝られなくて、もうどうにかなっちゃいそうだった。でも、最近思うんだ。他の人からしたら、私が、その他の誰か、だったんだって。私じゃなきゃダメだったんだって」

「じゃあ、なんで泣いてんのさ」

 口では前向きなことを言っておきながら、好花は大粒の涙を流していた。

「ねぇ鈴花。学校、つまらないなんて言わないでよ。鈴花がつまらないと思っているその時間は、誰かにとっては、夜も眠れらなくなるほど、涙が止まらなくなるほど欲しかった時間なんだよ?だから、精一杯生きて。鈴花はこんなに可愛いし、こんなに優しい子なんだから」

 胸が痛くて痛くて仕方がなかった。私は必死に嗚咽をこらえた。私が泣いちゃいけないんだ。

「鈴花、私は幸せ。こんなにいい友達にも出会えたし、私の命一つで、いくつもの命が救えるって言うんだから」

 そう言いながら、好花は大粒の涙を流し、笑っていた。どっちが本当の気持ちなんだろう。辛くないわけがない。苦しくない訳が無い。それを隠すための笑顔だったとしても、たとえ虚勢だったとしても、笑っていられる好花の強さは本物だと思った。

 

 それからもずっと、私は好花に会いに行ったけれど、日に日に衰えていくのが分かった。そして数週間経ったある日の学校の授業中、病院から連絡が入り、私は学校を抜けて病院に急いだ。病室に着いた頃には大勢の人が好花のベッドを囲んでいて、その姿が見えなかった。でも私は、好花のお母さんに呼ばれて、好花のすぐ近くに行った。あとから聞いたんだけど、最後に話すのは鈴花がいいと、好花が前から言っていたらしい。でも、好花は話すことなんてできなくて、透明なビニールのドームの中から、必死に目だけを私に向けていた。私はビニールドームに手を置いて、必死に笑って見せた。そしたら、好花がゆっくり手を伸ばして、私の手に重ねた。湿った感触が手に伝わった。

 好花も、笑っているように見えた。

 

 

「あ、鈴花ちゃん。今日も来てたの?」

 後ろから声をかけてきたのは、看護師の加藤史帆さんだった。よくこの辺を掃除していて頻繁に会うし、歳が近いこともあって仲良くなった。

「松田さんの命日、この前だったんだね」

「はい、いつも以上にお花があって、もうどこに置いていいやら」

「みんなから好かれてたんだね」

「はい」

「でも、鈴花ちゃんが一番多くここに来てるよね。鈴花ちゃんたちは親友だったんじゃない?」

「親友?う~ん、なんかニュアンスが違うなぁ」

「じゃあ、姉妹とか?」

「そう!それ!」

「あはは、だとしたら、どっちがお姉ちゃん?」

「もちろん私ですよ」

 お姉ちゃんがダメダメだと、妹がしっかり者になっちゃうのって、あるあるだよね。

 私は手に持っていたガーベラを、お墓の一番近くに置いて立ち上がった。

 

 好花は赤いガーベラが好きなんだってさ。花言葉は、たしか「希望」だったっけ。