またダメだった。いや、もうダメだ。潮さんに挨拶を済ませて出版社を後にした別れ際、私が彼女に背を向けた瞬間にため息が聞こえたような気がして、走って逃げ出したくなった。
出版社のオフィスから歩いて5分で駅に着いた。梅雨のこの時期、空が灰色のせいで曖昧だけど夕方ぐらい。都心の、しかも人口密度の多い街だからか、土曜日だと言うのにホームには人がたくさんいる。
周囲の人々の細かな動き一つ一つが胸を引っ掻く。男の人の咳き込む声が、惨めな私に向けられたもののように感じる。女性たちの笑い声が、私を嘲笑しているように聞こえる。小説家をやめて終えば、楽になれるのかもしれない。何者でもなく、ただ働いて、食べて寝るだけの生活を送れば、みんなみたいに笑えるかもしれない。どうして私はこんなになってしまったのだろう。
あの人は私より上。あの人も私より上。この中で私が一番下。そんなふうにしか思えなくて、今にもホームから身を投げ出したくなる。
電車がホームに着く。人の流れに抗えず、後ろに並ぶ人に押されるような形で電車に乗り込んだ。腕に抱えた、プロットの入った封筒がクシャッと折れた。
梅雨のジメジメした空気が車内に充満する。人々の汗の匂いが鼻をつき、ツーンと痛くなり、むせ返りそうになる。
「お姉さん。どうして泣いてるんですか?」
少女の声がした。誰が泣いているのだろう。
「体調が悪いんですか?大丈夫ですか?」
体調が悪い人がいる?大丈夫かな。私はあたりを見渡した。その時、人と人の間から見えたガラスに、自分の顔が映った。目尻からうっすらと、涙の線が見えた。私は、泣いていた。
「あの、大丈夫ですか?椅子替わってもらいますか?」
少女は私のことを見上げながら、私のシャツの裾を掴んで、長い座席を指差して言った。
「いや、あの、違くて…何処かが悪いわけじゃないの」
電車が揺れて、満員の乗客が一斉にバランスを崩しかける。少女が私にぶつかって、私が抱えていた封筒がクシャッと音をたてた。
「あ、ごめんなさい。封筒大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
少女は「良かった」といって優しく笑った。小学校高学年から中学生くらいうの歳だろうか。しっかりしてるな。それに、優しい子なんだろうな。この子はどんな大人になるのだろう。私みたいにはならないで欲しい。
「お姉さん。何か辛いことがあったんですか?」
少女は私を見上げたまま聞いた。こういうことを躊躇なく聞いてしまえるくらい、やっぱりこの子は子供なんだな。私はその時どうかしてたんだと思う。もう何もかもどうでも良かった。小説家もやめようと思ってた。今やってる派遣の仕事もやめて、何処かに就職しようと思ってた。だから、なんの躊躇もなく、吐き出そうとしていた。
「私はね、今さっき、夢を諦めたんだよ」
私は少女を見下ろしてそう言った。周りの乗客は私たちのことなんて気にかけてなかった。
「こら、そんなこと聞くんじゃない」
少女の両親らしき二人が、私から少女を引き離そうとした。
「大丈夫ですよ、私もこの子とお話ししたかったので」
私がそう言って、精一杯の作り笑いをすると、両親二人は気まずそうに頭をかいた。少女だけがニコニコしながら私のシャツの裾を掴んだ。きっと、いろんな人から愛されてる子なんだろう。人懐っこくて、躊躇いがない。自分が否定される痛みを知らない、純粋な子。
あぁ、こんな子が傷つかない世界であって欲しい。私みたいに、どこかで道を間違えないで欲しい。そう思うと、ますます涙が溢れた。
「お姉さん?」
「大丈夫。辛いから泣いてるんじゃないよ」
本当は、辛いから泣いてる。何を間違ったんだろう。友達と遊ぶことが苦手だった。先生の言うことを聞くのが苦手だった。小学生の頃、休み時間は教室にも校庭にも居場所が無くて、図書室だけが私の居場所だった。本に描かれている世界だけが、私の生きてる世界だった。ただ、本を読むことが好きだった。自分で書き始めたのは中学生の頃。それはただの現実逃避だった。それでよかった。それで、何にでも耐えられた。
小説家になった今、私にはもう逃げ場がなかった。
その時、少女の目尻から一筋の涙が流れた。
「どうしたの?」
私がそう聞くと、「分からない」と言って、少女は両手で目を拭った。
もしかしてこの子は、私のために涙を流してくれてるのかもしれない。いったいこの世の中に、自分以外の誰かのために泣ける人がどれほどいるだろう。
「私、子供だから知らなかった。大人はみんな強くて、泣かないものって思い込んでた」
少女は泣きながらそう言った。周りの人たちが徐々に、私たちに注目し始める。私はあたりをキョロキョロと見回した。人々は、鬱陶しそうな目線を送ってくる。確かに、みんないろいろ抱えてこの電車に乗っていることはわかってる。帰り道くらい静かにして欲しいことぐらいわかってる。でもこの少女は、他人のために涙を流してるんだ。こんな優しい子のことを、どうしてそんな目で見ることができるんだ。
この世界はあまりにも醜くて、それ故に、あまりにも美しいものが際立つ。灰色の雲の隙間に現れた、真っ白な光が、この少女だった。
私はこの子のために、自分のために涙を流してくれたこの子のために何ができるだろう。そうだ、この少女の物語を作ろう。いつ出来上がるか分からない。でも、必ずこの子の手に届くように、主人公の名前は、
「ねぇ、あなた。名前は、なんて言うの?」
少女は涙を手の甲で拭いながら、
「上村、ヒナノ…」
と告げた。主人公の名前は、上村ヒナノ。他人の痛みに敏感な優しい少女。その純粋さゆえに傷つき、過ちを犯すこともある。それでも少女は、周囲の人間に手を差し伸べられて、真っ直ぐに生きていく。少女が見捨てられなかったのは、その心の芯にある優しさゆえだった。
うん。今までの私の小説のテイストとも違う。これなら潮さんもOKを出してくれるだろう。ありがとう、私は夢を、捨てないでいられそうだ。
「お姉さんは?何をしてる人?」
「私は、宮田愛萌。私はね…」
その時だった。車内に、聞いたことのないようなブザーが鳴った。と同時に車体が大きく一度跳ね、金属の擦れる音が乗客全員の鼓膜を破くほどに揺らした。
『車内が大きく揺れます!車内が大きく揺れます!手すりにつかまれる方はしっかりと捕まり、周りのお客様も、互いに体などを掴み合って、衝撃に備えてください!』
ブザーが鳴ったまま、大きな声のアナウンスが響く。車内はパニックだった。ざわつき、アナウンスの声も聞こえなくなる。誰が手すりを掴むのかと揉め始め、争い始める始末。
『カーブに入ります!電車はスピードを落とすことが出来ません!衝撃に備えてください!』
そのアナウンスが響くと、乗客たちは一層騒ぎ始めた。女性たちは泣き叫び、男性たちは争い続ける。阿鼻叫喚とはまさにこの事だろう。
あぁ、やっぱり、小説家を続けられそうにないか。希望を見つけた途端、それをくじかれる。私の人生にしては、文学的な最後だった。最後に両親に会えないのは辛いな。学生時代の数少ない友達は、今も元気かな。好きな人だっていた時もあるけど、いつも私は、手を伸ばすことさえしなかった。もしも、もう少しだけ私に勇気があったなら、恋人だっていたのかな。
後悔ならいっぱいある。
でも。絶対にこの世界に繋ぎ止めなくてはいけないものが、私にはわかる。
「ヒナノちゃん!」
私はひしめき合う人々の中からヒナノちゃんを引き寄せて、力いっぱい抱きしめた。ヒナノちゃんの両親も、そこにしがみつく。三人でヒナノちゃんのことを目一杯抱きしめた。
「お父さん!お母さん!」
ヒナノちゃんが泣きながら叫んだ。
「お父さん!お母さん!お姉さん!」
「大丈夫。ヒナノは大丈夫だから」
お父さんがそう言った。お母さんも「大丈夫。大丈夫」と、優しくヒナノちゃんの耳元で語りかけた。あぁ、なんて強い人たちなんだろう。ヒナノちゃんが真っ直ぐに育つ訳だ。この世界で大切なものが何か、二人ともよく分かってる。
抱きしめ合ってる私だからわかる。ヒナノちゃんの両親の手もまた、恐ろしさで震えていた。それでも、自分たちが残さなくてはいけないものが分かってる。
「ヒナノちゃん、大丈夫だよ。あなたの未来は、きっと光り輝いてる」
ヒナノちゃんは泣き叫んでいた。私のその声は届いていなかったかもしれない。でも良いんだ。私のことなんて覚えていなくて良い。この先、私のことなんて忘れて、幸せに。
電車が大きくはねた。宙に浮く感覚でお腹が縮み上がる。一斉に絶叫がこだまし、車内に絶望が走る。
私はヒナノちゃんの両親と顔を合わせた。二人とも恐怖と絶望で泣いていた。私たち三人はより力を込めて抱きしめ合った。この絶望の中で、たった一つの希望を残すために。
体が冷たい。痛みとも違う、痺れのような感覚が全身を包んでる。目が開かない。何かで固まっているんだろう。必死にまぶたを開けると、パリっと音をたてて、まぶたが片目だけ開いた。あぁ、血で固まってたんだ。てことは、随分気を失っていたんだな。
重い首を回してあたりを見渡した。私は地獄に落ちたのかな。まともな人間じゃなかったけど、そこまで悪いことはしてないはずなのに。いや、この体の感覚、ここはまだ現世だ。油が蒸発する匂い。肉が焦げた匂い。炎とは、こんなに大きな音をたてて燃えるものなのか。体の部位で、動くのは首だけだった。後はビリビリと痺れて、動かせる気配がない。左側を見ると、そこにはヒナノちゃんのお父さんがうつ伏せで倒れていた。あぁ、なんとなく分かる。もうこの人は助からない。
そのお父さんの下に、ヒナノちゃんがいた。微かに、まぶたや眉毛が動く。息をしているのかもしれない。
繋がった。私たちの希望が。
私は手を伸ばそうとした。でも動かない。いや、この私の視線の先にある腕は、確かに私の腕だけど、もう私のものじゃない。私の体から離れてる。
ヒナノちゃん。起きて。起きて。心の中で何度も叫んだ。すると、生まれてはじめてまぶたを開けるかの如く、ゆっくりと、恐る恐るヒナノちゃんはまぶたを開いた。
今なら私は、胸を張って自分が何者かを叫ぶことができる。私は小説家。自分の思いや、この世界の美しさ、この世界にある正しさ、それらをこの世に残して、繋いでいく者。私は今日確かに、大事なものを世界につなぎ止めた。
生きて。生きて。
必死に声にしようとした。でも、聞こえるのは炎の音と、自分の体からコポコポと鳴る、水っぽい音。おそらく気管のどこかに穴が開いて、血液がそこに溜まってる。
生きて。生きて。
声に出そうとする度に、コポコポと音が鳴る。それでも私は声を出そうとした。最後に、彼女に届けなくては。
「生きて」
声に出ただろうか。ちゃんと、彼女に届いただろうか。ヒナノちゃんは瞳を私の方に向けている。
あぁ、届いてると良いな。