またダメだった。いや、もうダメだ。潮さんに挨拶を済ませて出版社を後にした別れ際、私が彼女に背を向けた瞬間にため息が聞こえたような気がして、走って逃げ出したくなった。

 出版社のオフィスから歩いて5分で駅に着いた。梅雨のこの時期、空が灰色のせいで曖昧だけど夕方ぐらい。都心の、しかも人口密度の多い街だからか、土曜日だと言うのにホームには人がたくさんいる。

 周囲の人々の細かな動き一つ一つが胸を引っ掻く。男の人の咳き込む声が、惨めな私に向けられたもののように感じる。女性たちの笑い声が、私を嘲笑しているように聞こえる。小説家をやめて終えば、楽になれるのかもしれない。何者でもなく、ただ働いて、食べて寝るだけの生活を送れば、みんなみたいに笑えるかもしれない。どうして私はこんなになってしまったのだろう。

 あの人は私より上。あの人も私より上。この中で私が一番下。そんなふうにしか思えなくて、今にもホームから身を投げ出したくなる。

 電車がホームに着く。人の流れに抗えず、後ろに並ぶ人に押されるような形で電車に乗り込んだ。腕に抱えた、プロットの入った封筒がクシャッと折れた。

 梅雨のジメジメした空気が車内に充満する。人々の汗の匂いが鼻をつき、ツーンと痛くなり、むせ返りそうになる。

「お姉さん。どうして泣いてるんですか?」

 少女の声がした。誰が泣いているのだろう。

「体調が悪いんですか?大丈夫ですか?」

 体調が悪い人がいる?大丈夫かな。私はあたりを見渡した。その時、人と人の間から見えたガラスに、自分の顔が映った。目尻からうっすらと、涙の線が見えた。私は、泣いていた。

「あの、大丈夫ですか?椅子替わってもらいますか?」

 少女は私のことを見上げながら、私のシャツの裾を掴んで、長い座席を指差して言った。

「いや、あの、違くて…何処かが悪いわけじゃないの」

 電車が揺れて、満員の乗客が一斉にバランスを崩しかける。少女が私にぶつかって、私が抱えていた封筒がクシャッと音をたてた。

「あ、ごめんなさい。封筒大丈夫ですか?」

「うん。大丈夫」

 少女は「良かった」といって優しく笑った。小学校高学年から中学生くらいうの歳だろうか。しっかりしてるな。それに、優しい子なんだろうな。この子はどんな大人になるのだろう。私みたいにはならないで欲しい。

「お姉さん。何か辛いことがあったんですか?」

 少女は私を見上げたまま聞いた。こういうことを躊躇なく聞いてしまえるくらい、やっぱりこの子は子供なんだな。私はその時どうかしてたんだと思う。もう何もかもどうでも良かった。小説家もやめようと思ってた。今やってる派遣の仕事もやめて、何処かに就職しようと思ってた。だから、なんの躊躇もなく、吐き出そうとしていた。

「私はね、今さっき、夢を諦めたんだよ」

 私は少女を見下ろしてそう言った。周りの乗客は私たちのことなんて気にかけてなかった。

「こら、そんなこと聞くんじゃない」

 少女の両親らしき二人が、私から少女を引き離そうとした。

「大丈夫ですよ、私もこの子とお話ししたかったので」

 私がそう言って、精一杯の作り笑いをすると、両親二人は気まずそうに頭をかいた。少女だけがニコニコしながら私のシャツの裾を掴んだ。きっと、いろんな人から愛されてる子なんだろう。人懐っこくて、躊躇いがない。自分が否定される痛みを知らない、純粋な子。

 あぁ、こんな子が傷つかない世界であって欲しい。私みたいに、どこかで道を間違えないで欲しい。そう思うと、ますます涙が溢れた。

「お姉さん?」

「大丈夫。辛いから泣いてるんじゃないよ」

 本当は、辛いから泣いてる。何を間違ったんだろう。友達と遊ぶことが苦手だった。先生の言うことを聞くのが苦手だった。小学生の頃、休み時間は教室にも校庭にも居場所が無くて、図書室だけが私の居場所だった。本に描かれている世界だけが、私の生きてる世界だった。ただ、本を読むことが好きだった。自分で書き始めたのは中学生の頃。それはただの現実逃避だった。それでよかった。それで、何にでも耐えられた。

 小説家になった今、私にはもう逃げ場がなかった。

 その時、少女の目尻から一筋の涙が流れた。

「どうしたの?」

 私がそう聞くと、「分からない」と言って、少女は両手で目を拭った。

 もしかしてこの子は、私のために涙を流してくれてるのかもしれない。いったいこの世の中に、自分以外の誰かのために泣ける人がどれほどいるだろう。

「私、子供だから知らなかった。大人はみんな強くて、泣かないものって思い込んでた」

 少女は泣きながらそう言った。周りの人たちが徐々に、私たちに注目し始める。私はあたりをキョロキョロと見回した。人々は、鬱陶しそうな目線を送ってくる。確かに、みんないろいろ抱えてこの電車に乗っていることはわかってる。帰り道くらい静かにして欲しいことぐらいわかってる。でもこの少女は、他人のために涙を流してるんだ。こんな優しい子のことを、どうしてそんな目で見ることができるんだ。

 この世界はあまりにも醜くて、それ故に、あまりにも美しいものが際立つ。灰色の雲の隙間に現れた、真っ白な光が、この少女だった。

 私はこの子のために、自分のために涙を流してくれたこの子のために何ができるだろう。そうだ、この少女の物語を作ろう。いつ出来上がるか分からない。でも、必ずこの子の手に届くように、主人公の名前は、

「ねぇ、あなた。名前は、なんて言うの?」

 少女は涙を手の甲で拭いながら、

「上村、ヒナノ…」

 と告げた。主人公の名前は、上村ヒナノ。他人の痛みに敏感な優しい少女。その純粋さゆえに傷つき、過ちを犯すこともある。それでも少女は、周囲の人間に手を差し伸べられて、真っ直ぐに生きていく。少女が見捨てられなかったのは、その心の芯にある優しさゆえだった。

 うん。今までの私の小説のテイストとも違う。これなら潮さんもOKを出してくれるだろう。ありがとう、私は夢を、捨てないでいられそうだ。

「お姉さんは?何をしてる人?」

「私は、宮田愛萌。私はね…」

 

 その時だった。車内に、聞いたことのないようなブザーが鳴った。と同時に車体が大きく一度跳ね、金属の擦れる音が乗客全員の鼓膜を破くほどに揺らした。

 

『車内が大きく揺れます!車内が大きく揺れます!手すりにつかまれる方はしっかりと捕まり、周りのお客様も、互いに体などを掴み合って、衝撃に備えてください!』

 ブザーが鳴ったまま、大きな声のアナウンスが響く。車内はパニックだった。ざわつき、アナウンスの声も聞こえなくなる。誰が手すりを掴むのかと揉め始め、争い始める始末。

『カーブに入ります!電車はスピードを落とすことが出来ません!衝撃に備えてください!』

 そのアナウンスが響くと、乗客たちは一層騒ぎ始めた。女性たちは泣き叫び、男性たちは争い続ける。阿鼻叫喚とはまさにこの事だろう。

 あぁ、やっぱり、小説家を続けられそうにないか。希望を見つけた途端、それをくじかれる。私の人生にしては、文学的な最後だった。最後に両親に会えないのは辛いな。学生時代の数少ない友達は、今も元気かな。好きな人だっていた時もあるけど、いつも私は、手を伸ばすことさえしなかった。もしも、もう少しだけ私に勇気があったなら、恋人だっていたのかな。

 後悔ならいっぱいある。

 でも。絶対にこの世界に繋ぎ止めなくてはいけないものが、私にはわかる。

「ヒナノちゃん!」

 私はひしめき合う人々の中からヒナノちゃんを引き寄せて、力いっぱい抱きしめた。ヒナノちゃんの両親も、そこにしがみつく。三人でヒナノちゃんのことを目一杯抱きしめた。

「お父さん!お母さん!」

 ヒナノちゃんが泣きながら叫んだ。

「お父さん!お母さん!お姉さん!」

「大丈夫。ヒナノは大丈夫だから」

 お父さんがそう言った。お母さんも「大丈夫。大丈夫」と、優しくヒナノちゃんの耳元で語りかけた。あぁ、なんて強い人たちなんだろう。ヒナノちゃんが真っ直ぐに育つ訳だ。この世界で大切なものが何か、二人ともよく分かってる。

 抱きしめ合ってる私だからわかる。ヒナノちゃんの両親の手もまた、恐ろしさで震えていた。それでも、自分たちが残さなくてはいけないものが分かってる。

「ヒナノちゃん、大丈夫だよ。あなたの未来は、きっと光り輝いてる」

 ヒナノちゃんは泣き叫んでいた。私のその声は届いていなかったかもしれない。でも良いんだ。私のことなんて覚えていなくて良い。この先、私のことなんて忘れて、幸せに。

 電車が大きくはねた。宙に浮く感覚でお腹が縮み上がる。一斉に絶叫がこだまし、車内に絶望が走る。

 私はヒナノちゃんの両親と顔を合わせた。二人とも恐怖と絶望で泣いていた。私たち三人はより力を込めて抱きしめ合った。この絶望の中で、たった一つの希望を残すために。

 

 体が冷たい。痛みとも違う、痺れのような感覚が全身を包んでる。目が開かない。何かで固まっているんだろう。必死にまぶたを開けると、パリっと音をたてて、まぶたが片目だけ開いた。あぁ、血で固まってたんだ。てことは、随分気を失っていたんだな。

 重い首を回してあたりを見渡した。私は地獄に落ちたのかな。まともな人間じゃなかったけど、そこまで悪いことはしてないはずなのに。いや、この体の感覚、ここはまだ現世だ。油が蒸発する匂い。肉が焦げた匂い。炎とは、こんなに大きな音をたてて燃えるものなのか。体の部位で、動くのは首だけだった。後はビリビリと痺れて、動かせる気配がない。左側を見ると、そこにはヒナノちゃんのお父さんがうつ伏せで倒れていた。あぁ、なんとなく分かる。もうこの人は助からない。

 そのお父さんの下に、ヒナノちゃんがいた。微かに、まぶたや眉毛が動く。息をしているのかもしれない。

 繋がった。私たちの希望が。

 私は手を伸ばそうとした。でも動かない。いや、この私の視線の先にある腕は、確かに私の腕だけど、もう私のものじゃない。私の体から離れてる。

 ヒナノちゃん。起きて。起きて。心の中で何度も叫んだ。すると、生まれてはじめてまぶたを開けるかの如く、ゆっくりと、恐る恐るヒナノちゃんはまぶたを開いた。

 今なら私は、胸を張って自分が何者かを叫ぶことができる。私は小説家。自分の思いや、この世界の美しさ、この世界にある正しさ、それらをこの世に残して、繋いでいく者。私は今日確かに、大事なものを世界につなぎ止めた。

 

 生きて。生きて。

 

 必死に声にしようとした。でも、聞こえるのは炎の音と、自分の体からコポコポと鳴る、水っぽい音。おそらく気管のどこかに穴が開いて、血液がそこに溜まってる。

 

  生きて。生きて。

 

 声に出そうとする度に、コポコポと音が鳴る。それでも私は声を出そうとした。最後に、彼女に届けなくては。

 

 「生きて」

 

 声に出ただろうか。ちゃんと、彼女に届いただろうか。ヒナノちゃんは瞳を私の方に向けている。

 

 あぁ、届いてると良いな。

 
 
雨を数えてるの

 クーラーからの風がカビ臭い、電話が鳴り止まないオフィスの、低い壁で区切られた打ち合わせスペース。束ねた紙がめくられる音が鳴るたび、内臓のヒダを爪で引っ掻かれたようにキリッと痛みがはしる。

「宮田さん。今回も面白い話になりそうですね」

 担当編集の潮さんは丁寧に作られた笑顔を私に向けながら、手に持っていた私の次回作のプロットが書かれたプリントの束を机に置いた。

 あぁ、今回もダメなんだ。私にはそれがすぐに分かった。

 

 大学入学後、19歳で新人賞を受賞して私は小説家になった。決して一流とは呼べないような、ライト文芸を扱う文芸誌の新人賞で、世間的には私のデビューなど話題にならず、目を凝らして探さなければネットニュースの記事だって見つからなかった。それでも、ずっと夢だった小説家になれたことが嬉しくて仕方がなかった。これからもこの肩書にしがみつくために小説を描き続けようと、鼻息を荒くしていた。

 新人賞を受賞した作品が単行本として出版されることが決まり、それにあたって担当編集がつくことになった。潮紗理奈という、私より6つ上の編集者で、担当を持つのは私が初めてだったらしい。

「潮紗理奈と申します。これから長い付き合いになればいいなと思っています。よろしくお願いします」

 丁寧に挨拶され、私は気圧されて黙り込んでしまった。

「宮田先生!デビュー作読まさせて頂きました。本当に面白かったです!これから校閲の方に見てもらって少しだけ直して頂き、出版される形になります。出版されるまで一緒に頑張っていきましょう!」

 明るい声でそう言いながら、私に握手を催促してきた。私は汗でびっしょりになった手をスカートの布で拭いてから、手を差し出した。初対面の人と話すせいか緊張していて、それまで私は一言も発していなかった。

「あの、先生、って言う呼び方はちょっと」

 必死に絞り出した言葉がそれだった。私は情けなくて、すぐにその場から逃げ去りたかった。小説家になったと言うのに、私には社会人としてのスキルが足りな過ぎた。

「あはは。そうですか、じゃあ、宮田さんとお呼びしますね。私のことは適当に呼んでください」

 彼女は気が効く人で、気さくで、優しい人だった。でも、徐々に接していくうちに、彼女のお世辞という名の嘘がわかるようになっていった。デビュー作が1000部出版され、密かに増刷も決定した時、私は二作目の小説のプロットを持って出版社に行った。潮さんにプロットを渡して少し読んでもらうと、目を輝かせて飛び跳ね「良い!キャラクター設定も面白いし、ラストもハッピーエンド過ぎなくてちょっと悲しい感じ、すごく良いです。この作品、これからの宮田さんの方向性を決めるものになると思います!すぐに上に持っていきたいので、できれば早めに、少しだけで良いので内容書いてきてもらえませんか?」と、興奮気味に早口で言われた。嬉しかった。新人賞を受賞したは良いものの、それ以降何も書けずに終わる小説家が多い中、私はこれからも小説家としてやっていけると思い、自然と笑みが溢れていた。

 結果的に二作目は、一作目と同じ部数出版され、増刷されるまでには時間が掛かった。私がハタチになったところだった。

 三作目のプロットを潮さんに見せた時、また同じように潮さんは褒めてくれた。椅子に座ったまま、身を乗り出して。二作目の時は興奮して、飛び跳ねていたのに。

「今回も面白いです!宮田先生の個性がすごくよく出ていると思います。ただ、キャラクターの設定が前回と似ているので、今回は思い切ってヒロインの性格を前回前々回とは真逆にしてみませんか?」

 潮さんの言う通りだと、素直に受け止め、私はプロットを練り直した。2、3回プロットを書いては直す、を繰り返し、なんとか三作目の方向性は決まった。結局出版できたのは二作目から2年が経過した頃だった。その三作目は、増刷されなかった。

 四作目のプロットを持って行った時、あぁ、この潮という人は嘘が下手なんだな、と気がついた。そして、私の中の小説に向けられる才能が、枯れつつあることに気がついた。

「とても面白いです」

 見えすいた嘘の笑顔。アドバイスも何もなく、世間話をして、私はその日、出版社を後にした。潮さんからの折り返しの連絡が来たのは1ヶ月後だった。四作目は、同年代の小説家たちとの共同企画的なものにしよう、とのことだった。アンソロジーにならずには済んだけれど、キャラクターや舞台の設定が、ほとんどあらかじめ決められたものだった。私はそれを、仕事、だと思って割り切り、なんとか書ききった。私が大学を卒業して一年が経った頃だった。

 

 五作目になるであろう今回のプロットも芳しくなかったのだろう。潮さんはとにかく、そのプロットのいいところを羅列して話してくれた。でもそれが、何か核心的なアドバイスを探すための時間稼ぎでしかないことが分かった。今回もダメなのか。また企画ものになるかもしれない。そもそも、もう書きたいことなんて無いのかもしれない。

「宮田さん。面白いんですけど、やっぱりキャラクターの設定や話の作りが、デビュー作から一貫して似ているよな気がするんです。それが宮田さんの個性であることは確かなんですけど、やっぱり、もう五作目なので、今回は何か新しいものに挑戦してみませんか?今はお仕事もあって大変だと思うので、焦らず、じっくり新作を考えてみてもいいのかなと思うんですけど」

 全然ダメだからもっと時間かけて考えてこい。そう言われた気がして、胃の中が燃えているような痛みに襲われた。

 

 大学卒業後、私は正社員として就職しなかった。小説を書くために、生活できる分のお給料がもらえればキャリアアップなどどうでも良かったから。登録した派遣会社から指示され、大きな家電メーカーの事務として働き始めた。といっても、私に振られる仕事は微々たるもので、正社員たちが毎日残業する中、私だけが定時で退勤する日々だった。私としては、平日も小説を書く時間がたっぷりあることが嬉しかったけれど、周りからは、少しだけ嫌な目で見られているようだった。私は正社員じゃないんだから、そんな人たちと同等に扱われる必要はないはずなのに。

 社員の人たちが、いくつかのグループに分かれて昼食に行く中、私は一人でこっそりとオフィスの屋上で昼食を食べた。少ない給料でやりくりするために、毎日安いパスタをオリーブオイルと塩で炒めた料理とも呼べない料理を食べていた。

 度々ある打ち上げや忘年会にも呼ばれていなかった。どうやら私のことは一応呼んであることになっているらしいけど、私は呼ばれた覚えなど無かった。それでも構わなかった。飲み会など時間の無駄だ。その時間で原稿用紙五十枚は書ける。

 そして私が小説家であることは、いつの間にか社内に知れ渡っていた。本名で活動していたから当たり前なのだけど。

「いつも退勤した後小説書いてるの?」 

 オフィスで隣の席にいる同い年の女性社員に聞かれた。

「だから毎日定時で帰るんだ。いいね、私も何か夢があれば定時で帰れるかな」

 そういって笑った彼女の顔がトラウマになった。どうしてそんな嫌味を言われなければいけないんだろう。私は振られた仕事は全部終わらせてから帰ってる。正直、社員のみんなだって仕事は終わってるはずなのに、同調圧力で残業して、働いてるフリしてるだけじゃないか。どうして私は、こんな思いをしなくてはいけないんだろう。

 ある日、その隣の席の同い年の社員が大きなミスをした。社内の一部が大騒ぎで、その日一日後処理に追われていた。私にも当然その皺寄せは来たけれど、なんとか定時までに私は作業を終わらせることが出来た。 

 社内も落ち着き始め、私が帰りの準備をしていたその時、私はワイシャツの襟首を掴まれた。

「本当あんたって図太いよね」

 青白い顔をした同い年の社員が私を睨んでいた。社内はもう落ち着いている。それでも、大きなミスを犯した本人だけは、落ち着きなど取り戻してなかったのだ。

「みんなが必死で後処理してんのに、どうしてアンタは我関せずで帰れるわけ!?」

 オフィスに怒鳴り声が響く。誰も気に留めてくれない。彼女の方が正しいのか。

「どうせ私のミスだって、今のこの状況だって小説に書くんでしょ?それでストレス発散できるんだから羨ましいよ。みんな必死で何かに耐えてんのに、あんただけはそれを小説で垂れ流して、共感してもらって、承認欲求満たして、よくそれで毎日毎日平気な顔して帰れるよね」

 目の前がチカチカして、今にも倒れてしまいそうだった。何を言われても耐えられる気がしていたのに、小説のことを言われた瞬間に、どうしようもなく死にたくなった。確かに私は、日常で起きたことを小説の参考にする。それは物語にリアリティを持たせるため。それでストレス発散しようなんて思ってない。そんなつもりはないのに。

「目障りなんだよ。私たちにはこの仕事しかないから必死なのに、あんたはどうせ、『職を失っても小説で食っていけるから良いや』ぐらいにしか思ってないんでしょ?だから毎日毎日、そんな涼しい顔して働けるんでしょ!?」

 誰も彼女のことを止めなかった。彼女は鼻息を荒くしたまま、私の襟から手を離して椅子に座った。私はどうして良いか分からなくなり、ただただ椅子に座って、社員の人が帰り始めるまで、パソコンのデスクトップを整理するフリをしていた。苦しかった。息ができないほどに喉が縮み上がって、今にも叫びたかった。

 私は、自分が小説家であることが恥ずかしくなった

 窓ガラスが微かに鳴る。肌に触れたとて気がつかないほどの、小さな雨で鳴る。水滴にもならないそれは、窓ガラスに細い水の線を描き、私は思わずそれを指でなぞった。

「不思議なことをしてるね」

 茉莉はストローでコップの中をかき回し、カラカラと軽快な音を鳴らした。相変わらずよく笑う子だ。

「ヒナノは相変わらずだね」

「どういう意味?」

「相変わらず不思議ってこと」

「別に、目に止まったから、思わずなぞっちゃっただけ」

 ポツン、ポツンと、雨が線を作る。一つ、二つ、なんて、数えきれるはずないか。

「ヒナノ、大学はどう?」

「正直、ついていくのでやっとだよ。ギリギリ合格できたからね。もっと高校で勉強してればよかった」

「ヒナノでも大変なんだね。やっぱり医学部はすごいな」

「全然、みんな普通の大学生だよ。茉莉は?学校は楽しい?」

「うん。まぁ、特に何かあるって訳じゃないけど、楽しいよ。学部の授業も、サークルも」

「サークルかぁ。何か入ればよかったかなぁ」

「ヒナノに向いてるサークルなんてあるかなぁ」

「どういう意味それ」

「だって、バーベキューとか、海とか、学祭とか、飲み会とか…」

「ごめん、無理っぽい」

「やっぱり、ヒナノは相変わらずだね」

「また悪い意味でしょ?」

「違うよ。相変わらず、素敵な人ってこと」

 そんなことを言いながら、茉莉は顔を赤くした。慣れてないならそんなこと言わなければいいのに。そう思いながらも、私は自分の顔が火照っていることに気がついた。中学からの付き合いだけど、この子はたまに恥ずかしいことを言うから、それだけは慣れない。ただそれ以外は、感謝しても感謝しきれない。

 茉莉のスマホが鳴り、画面を見てから「陽世と未来虹、もうすぐ来るって」と言って、スマホを鞄に入れた。

「行こうか」 

 そう言った茉莉と一緒に席を立ち、会計を数ませて喫茶店を出る。雨は、傘をさすほどではないか。隣の茉莉は、白いトートバック の中から折り畳み傘を取り出した。

「ヒナノ、傘ないの?」

「うん。でも、このくらい降ってるうちに入んないでしょ」

「え~、でも濡れたくないでしょ」

「そうかな。私、雨嫌いじゃないんだよね」

「どうして?」

「う~ん、確かに。なんでだろうね」

 そんな話をしながら歩いていると、いつの間にか駅前に着いていて、改札の前にいた陽世と未来虹がこっちに駆け寄ってくる。

「ヒナノ、傘どうしたの」

 背の高い未来虹が、私の頭の水滴を払いながら尋ねた。「そんなに降らないと思ってたから持ってこなかった」と言うと、陽世が私に近づいて、傘の中に入れてくれた。

 みんなそんなに雨嫌いなのかな。

「ねぇ、雨好き?」

 私が尋ねると、

「外で運動できないから嫌い」と陽世。

「可愛い服が濡れるから嫌い」と未来虹。

「私は別に嫌いじゃない」と茉莉。そして、

「私にとっては、なんか雨って、ヒナノってイメージなんだよね」と続けた。

「どうして?」

 私が尋ねると、

「きっと仲良くなったのが、今ぐらいの季節だったからかな」

  私だって、何年経っても思い出す。あの、雨の季節の数週間。毎年この季節になって、雨の匂いを吸い込むと、胸いっぱいにあの声が聞こえる。その度に私は、背筋を伸ばして前を向く。

「でもやっぱ雨は嫌だな~。そうだ、バッティングセンター行こうよ。あそこなら雨でも遊べるし」

 そう言いながら、陽世は傘を閉じてそれをバットにみたててスイングした。「ちょっと雨飛んだんだけど!」と未来虹は晴世の肩を叩いた。

「それよりヒナノ、本当にご飯行けないの?」

 茉莉はさっきから何度もそう聞いてくる。

「ごめん。今日だけはどうしてもダメなの。それに、私達しょっちゅう会ってるじゃん」

「また大学の先輩からの呼び出し?」

 相変わらず野球のスイングをしながら陽世が聞く。

「うん。またあの先輩」

「本当、後輩使いが荒い先輩だね」

 陽世がそう言いながら口を尖らせた。「まぁ、そういう人なんだよ」と私が言うと、三人とも不服そうな顔をしてた。あの人は、誤解されやすい人なんだ。

 

 あたりが暗くなる前に三人と別れ、私は駅前の印刷所に向かった。店内に入り、パソコンルームにいる大学の先輩の隣に座る。レンタルのデスクトップPCでレポートをまとめながら、私に顔も向けないで「やっと来た」と言った。

「確かに、美玖さんは後輩使いが荒いですね。私の友達も言ってましたよ」

「何それ酷くない?ちゃんとお願いしてるのに」

「美玖さんはただでさえ誤解されやすいんだから」

「それはあんたも一緒だよ」

 そう言いながら、美玖さんは笑ってた。美玖さんは事件のあった年に受験はせずに、一年浪人したのち都内随一の医大に進学した。私はそんな美玖さんを追って猛勉強し、今年同じ大学に入学した。

「ていうかこれ、今日中に終わらせたいから、印刷できたやつを穴あけて、紐でまとめて欲しいんだ。それに病院に出入りできる時間もなくうなっちゃうから、ちょっと急ぎたくて」

 美玖さんはそう言ってスマホの画面で時計を見た。私もその画面を覗き見する。確かに時間がない。私は言われた通りに、美玖さんのパソコンの隣にある大型プリンターから出てくるプリントに穴を開けていき、紐で結んでいく。

 

 百ページ程の論文、同じものを三つ綴じたところで美玖さんはパソコンの電源を落とし、レンタル料の支払いを済ませて二人で印刷所を後にした。論文の入った茶封筒をリュックに入れて、傘もささずに美玖さんは小走りで進んでいく。その後ろを私もついていく。

「やばい、忘れるところだった」

 目的地の途中にある古い花屋の前で美玖さんは大きな声を出し、私もそれで思い出す。

 二人で二輪の赤いガーベラ を買った。

 病院に着いたのは面会時間の終わる三十分前だった。

「もういるよ」

 と、受付にいた史帆さんが裏口を指差す。「ありがとうございます」と二人で頭を下げてから廊下を進み、裏口を出て、その先の渡り廊下を抜け、また別の棟へ。何度きてもこの病院は広くて困る。その棟の脇道を抜けてようやくたどり着いた。

 そこにはもうすでに、一人の人影があった。傘もささずに、黒い髪が濡れて少しだけ光っていた。

「京子さん」

 美玖さんのその声に、京子が振り向く。

「ちょっと、面会時間ギリギリじゃん」

 京子は顔をムッとさせた。

「すいません。それより菜緒は?」

「菜緒は教育実習で来れないから、週末に一人で来るって」

「そっか。私たちの母校に行ってるんですよね。小藪先生まだいるかな」

「どうだろうねぇ」

「京子さんは、仕事はどうですか?」

 美玖さんが聞くと、京子は深くため息をついた。

「私に経営は向いてないのかなぁ。私たちの知らないとこで、施設のおばさん達は相当苦労してたんだね。施設を管理する側になってから、その苦労に気がついたよ」

 と、京子は愚痴をこぼした。それでも、いつか史帆さんと共に孤児院を開くために、下積みとして頑張って働いてる。

 世間話をしながら、私と美玖さんはお墓に花を添える。あたり一面が真っ赤に染まっていた。今日は、あの人の命日だった。私や京子、菜緒に美玖さん、そして柿崎さんは、毎年この日に、ここにくることが知らずのうちに約束になっていた。時間を合わせることは難しいけど、受付の史帆さんが教えてくれるおかげで、毎年みんながここに来ていることが分かった。

「それにしても、今年も、なかなか明けないね」

 京子は手のひらを開き、両手で雨をすくうようにお皿を作った。

 灰色の空から落ちる無数の雨粒。呆気なくコンクリートに落ちて、いつの間にか蒸発してどこかに消えてしまう。でも、雨は川となり、川は海へとつながり、それは蒸発し、雲となり、また雨を降らす。いつまでも繋がっていく命の循環。私は、それがどうしても無駄なものとは思えない。

 あの日誰かが流した涙が、今の私の心臓を守った。あの日彼女が飲み込んだ涙が、今の私の鼓動になった。あぁ、そう思うと、この雨粒ひとつひとつも、果てしなく尊く感じる。一つ、二つ、三つ…。

「そっか、だから私は雨が嫌いじゃないんだ」

 私がふとそう呟くと、美玖さんは首を傾げて、「何言ってんのあんた?」と眉間にシワを寄せた。

「雨を数えてたんです」

 美玖さんは相変わらず怪訝そうな顔をしていた。京子は、

「ふふっ。何処かの看護師も、同じことを言ってたよ」

 と言って笑っていた。変な看護師もいるもんだな。私はおかしくなって、笑った。

 

 拝啓、私の中にある声達。

 長々と語るのは苦手なので、少しだけ。

 楽しいことばかりではないけれど、

 私は今日も、笑っています。

 

 

※番外編に続きます

 土曜日、当院のA棟にある、学校の体育館の半分ほどの大ホールには、臨時のステージが建てられた。近所の公民館も手を貸してくれて、大きなお祭りなどで使うステージを借りることができた。朝からボランティアの方々が設営をしてくれて、入院患者と孤児院の子供たち、そして以外の、外から来たお客さんも含めて、会場は超満員。椅子に座りきれない人がいるほどだった。

 私は、この日をずっと待っていた。ずっと正恭くんが話してくれていたことがある。孤児院でライブをする時、ガラッとネタのスタイルを変えると。私は前から、春日くんがボケの方がいいと思ってたから。

「加藤さん、おはようございます」 

 菜緒ちゃんとヒナノちゃんが、並んで私に挨拶してくれた。

「おはよう。ありがとう、来てくれて」

「いえ、こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」

 慣れないような口調で、それでも一生懸命にヒナノちゃんはそう言って頭を下げた。菜緒ちゃんはそれを見て少し驚きながらも、私の方を見て笑った。

「お、小坂と上村やないか。おはよう」

 一足早く病院に来て、すでに椅子に座っていた小藪さんは振り返って二人に手を振った。

「小藪先生、お久しぶりです」

 菜緒ちゃんはニコニコしながら頭を下げた。「そんなかしこまんでえぇて」と言いながら、小藪さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「上村、元気か?」

 小藪さんは優しく、子供をあやすような笑顔で言った。

「はい。いろいろ、ご迷惑おかけしました。すいませんでした」

「ちゃうちゃう。そこは、ありがとう、でえぇねん」

「はい。えっと…ありがとうございました」

 小藪さんの隣に座る綺麗な女性と女の子もまた、ヒナノちゃんのことを心配していた。

「佐々木先生も、妹さんも、ご迷惑おかけしました」

「うん。いろいろあったね。これからは、大変かもしれないけど、みんなで乗り越えようね」

 ヒナノちゃんが先生と呼ぶ女性は、椅子から立ち上がって、ヒナノちゃんのことを抱きしめた。するとその横に座っていた、その先生の妹らしき人も立ち上がり、少し怒ったような顔で、ヒナノちゃんの肩を掴んだ。それでも、何も言わなかった。

「ごめんなさい。ようやくあなたの言っていたことが分かりました。ごめんなさい」

「謝んなくていいよ。分かったならそれでいい。自分のことも、他の人のことも、大切にね」

「…はい」

 小藪さんは、その一連の話を聞いてないふりしてステージの方を見ていたけど、きっとしっかり全部噛み締めていただろう。

「ていうか佐々木さん、なんでここに?」

 菜緒ちゃんが、その先生の妹さんに話しかける。どうやら知り合いみたいだ。

「それはね、私とお姉ちゃんは、今から出てくる芸人さんのファンだからだよ」

 妹さんは自分の胸を張って、声高らかに言った。

 私はその瞬間、泣きそうになった。正恭くん、あなたの言葉は、ちゃんと届いてるよ。

 その時、ホールにアナウンスが響いた。ついにライブが始まる。ざわついていたホールの人たちが椅子に腰掛け始め、徐々に静かになっていく。ほとんどの人が黙ってから、遅れてホールに来た女子大生が慌てながら、ガヤガヤと席を探していた。「あいつら、ホンマにアホやな」と、小藪さんはその女子大生二人を見て、どこか嬉しそうに笑ってた。

 京子、始まるよ。私は胸の中でそう唱えた。京子はまだ人前には行きたくないと言っていた。だから、どうかみんなの笑い声が京子の病室まで届くように、二人にはみんなを笑わせてもらはなくては。

 出囃子が鳴る。軽快な音楽とともに公民館で借りた証明がギラギラとカラフルに輝く。

「どうもー!」

 来た。でも、なぜか正恭くん一人だけしかいない。そう思った時、遅れてゆっくりと、ピンクのベストを着て、髪型をきっちりと7対3に分けた変な姿の春日くんが胸を張ってステージに出てくる。

 春日くんを見た瞬間、一瞬会場が沈黙し、その後、何かが爆発するかのように爆笑が湧き上がった。

「なんやねんあいつ!」

 小藪さんは手を叩いて笑った。子供たちも飛び跳ねて笑っている。患者たちも、静かに、でも確かに笑っていた。

 私は感動して、気がつくと泣いていた。何より一番驚いていたのは、今ステージの上にいる本人たちだった。二人とも客席を見渡し、ただ口を開けているだけだった。

「そっか、コンビニ店員のあの子、お笑い芸人やったんやな。なぁ上村、俺とお前は、あの子にコンビニで会ってるよな?」

 小藪さんのその声に、「はい」と、ヒナノちゃんは笑いながら答えた。

 笑いが収まりかけたところで二人はやっと我に帰り、自己紹介が始まった。

「どうもオードリーです~。我々ね、若林と春日で漫才やってる訳なんですけど…」

「皆さん、寂しい夜はナースコールではなく、カースコールでこの春日を呼んでもいいんですよ?」

「まぁすぐに警察を呼んで欲しいんですけどもね…」

「へ!」

 そのたった数回のラリーで、また会場が爆笑に包まれる。二人はまたキャラを忘れて、口を開けて立ち尽くした。

 ねぇ、この爆笑は、あなたたちに向けられたものだよ。

 私は涙が止まらなかった。

 漫才は続いた。爆笑に次ぐ爆笑。私は生きてきてこんなにも笑いに包まれたことがなかった。ネタも終盤に差し掛かる頃には、正恭くんはセリフを言う余裕もないほどに泣いていた。

「お…おま…おま」

 ついに正恭くんは目元を片手で覆い、言葉を放てなくなってしまった。それを見た春日くんも、たまらず後ろに振り返って私たちに背中を向ける。

 ここまで爆笑をさらってきたというのに、客席からはザワザワと不安を煽るような声がし始めた。

 その時。

「頑張れー!」

 子供の、無邪気な声が響いた。それに続いてもう一人、もう一人と、子供たちがステージ上の二人を応援し始めた。

「「頑張れー!」」

「「頑張れー!」」

 子供たちは絶えず声援をそそぐ。それによって一層、正恭くんの涙は溢れ出した。

「頑張れー!」

 子供達の中に、一人の大人の女性の声がした。前の方に座っていた鈴花ちゃんが椅子から立ち上がって、恥ずかしげもなく叫んでいた。

「「せーの…頑張れー!」」

 また二つ、子供のものとは違う叫び声。さっきまで席を探していた高本さんとそのお友達は、ステージのすぐ横に立って、全力で叫んでいた。

 会場が一体となって、二人に声援を送り始めた。頑張れ。頑張れ。

「…が…頑張れー!」

 隣に立っていたヒナノちゃんが、顔を真っ赤にして、裏返った声で叫んでいた。

 誰の命も、決して無駄なんかじゃない。どんな命だって、それは明日の誰かに繋がってる。私だけでも、それを見逃さないでいようと思ってた。でも、本当はみんなちゃんと見てる。無駄に思える私たちの心の叫びは、ちゃんと誰かに届いてる。

 頑張れ、正恭くん。頑張れ、京子。頑張れ、ヒナノちゃん。

「もうお前と漫才やってらんねぇよ!」

「おい、お前それ本気で言ってんのか?」

「いや本気で言ってたら、こんなに泣くほど大好きな漫才、こんなにたくさんの人の前で、こんなに楽しくお前とやってねぇよ!」

「「…へへへへへへ!!」」

 最後の爆笑の風が舞い上がって、二人のネタは終わった拍手は二人がいなくなった後もずっと止まらなかった。

 誰かが笑った昨日が、誰かが泣いた今日が、誰かが望んだ明日が、私たちの未来への道を作る。私たちは必ずどこかで繋がっている。それでも、誰からの目からもこぼれ落ちてしまう命があるから、やっぱり私だけは、それを見逃したくない。こんな風に、私も声援を送ってあげたい。だから私は、

 病院の裏口を抜けて、さらに棟をつなぐ渡り廊下を渡り、さらにその別の棟の脇道を抜けて、やっとたどり着くお墓。病院が援助し、近くのお寺が管理する共同管理の珍しいお墓だ。「広いですね」と、菜緒ちゃんがヒソヒソと言った。雨は降っていないけど、梅雨特有のジメジメした空気が気持ち悪い。それなのに、この場所はいつも、どこかひんやりしている。

「あそこなんですけど」

 私はよく知る松田さんの眠る場所を指さした。すぐに案内しなかったのは、そこに、これまたよく知る人が立っていたから。

 しばらく私が立ち尽くしていると、ヒナノちゃんが私の横に立った。

「あの方、松田さんの、知り合いの方ですか」

 静かに喋る子だな、と思った。

「はい。松田さんの、一番親しかった友達だそうです」

「…あの方と、話しても大丈夫ですかね」

 ヒナノちゃんはそう言うとゆっくりと歩き出した。仕方なく私と菜緒ちゃんもそれについていく。すると私たちの足音に気がついて、松田さんのお墓の前にいる女性は振り返った

「あ、加藤さんじゃないですか」

「こんにちは、鈴花ちゃん。今日も来てたんだね」

「えへへ。こないだ内定をもらって、それで好花に報告しようと思って」

「へぇ!すごい!良かったね!」

 私が手を叩いて喜ぶと、「いやぁ」と言いながら鈴花ちゃんは照れ笑いを浮かべた。

「それより、その子たちは…」

 鈴花ちゃんがそう言うと、ヒナノちゃんがゆっくりと一歩前に出た。

「…あの、松田さんのことを、お聞きしたくて」

「好花のこと?じゃあ、好花の知り合いってわけじゃないんだ」

「はい」

 鈴花ちゃんはしばらくヒナノちゃんを見つめていた。そして、

「…あぁ、そっか。そういうことか…なるほどね」

 何かを納得したように何度も頷いて、ヒナノちゃんに近づいた。一度京子に聞いたことがある。なぜ京子が松田さんのお墓に訪れていたのか。

 

 『この子は、私の大事な妹の、命の恩人なんだ』

 

 そうか、そういうことか。

 鈴花ちゃんはヒナノちゃんのことを、手が触れる距離でずっと見つめていた。ヒナノちゃんは気まずそうに視線を泳がせていた。

「あはは。そっかそっかぁ。そう思うと、あなたの呼吸の音も、心臓の音も、なんだか懐かしく聞こえるよ」

 鈴花ちゃんはそう言って、少し赤くなった目を隠すように俯いた。

「松田さんは、どんな方でしたか?」

 ヒナノちゃんは、自分のシャツの胸の辺りをギュッと握りしめて、顔を伏せてそう言った。

「好花はね、一言で言えば、マザーテレサ以来の善人。なんてのは冗談だけど、でも、本当に、他人思いの優しい子だった。あの子の口から、あの人が嫌い、みたいなことは聞いたことがないな。まぁ、嫌なことぐらいあっただろうし、愚痴言ってたりした時もあったけど、それでも、自分と衝突する人のことでさえ、ちゃんと理解しようとして、最後には手を繋いでるんだ。それにね、私は好花に会うまで、この世界をほんとうに退屈な世界だと思ってた。でも、この世界で生きていくってことがどういうことか、あの子が教えてくれたんだ。あの子のおかげで私は人間になれた。あの子のおかげで私は今も生きてる。今も笑ってる」

 ヒナノちゃんは鈴花ちゃんの話を聞きながら、時折鈴花ちゃんの目を見つめ、時折松田さんのお墓を見つめ、そして時折うつむいて、歯を食いしばった。

「もしも…もしも…松田さんの一部で命をつなぎ止められた人がいたとして、その人に松田さんが会えたとして、松田さんは、自分の一部を受け継いだその人に、なんて言うと思いますか?その人に、どんな人間になって欲しいと思うんでしょうか」

 ヒナノちゃんはゆっくりと、はっきりと、しっかり言葉を一つ一つ紡ぎ出した。菜緒ちゃんは両手を強く握りしめ、俯いていた。その目尻から、ポタポタと涙が落ちる。鈴花ちゃんは少し考えてから、「ぷっ」と小さく吹き出した。

「別に、何も言わないんじゃない?」

 鈴花ちゃんはニコッと笑っていた。ヒナノちゃんも菜緒ちゃんも顔を上げて、呆気にとられたように口を開けた。

「あの子はね、誰かに感謝されようなんて思ってないし、自分のせいで誰かの人生が決まっちゃうなんて、そんなの嫌がると思うよ。あの子は自分以外の誰かが幸せに生きられればいいとしか思っていないんだから、あなたは、自分と、自分の大切な人が幸せに暮らせるように、頑張れば良いと思うよ」

 その鈴花ちゃんの言葉に、鈴花ちゃんと好花ちゃんの関係性、そして二人の透き通った清らかな心が、よく表されていた。なんて気持ちの良い人たちなんだろう。

「でもさぁ、あんた」

 鈴花ちゃんはそう言いながら、顔をしかめてヒナノちゃんの顔をいろんな角度からジロジロと観察した。「な、なんですか?」と言ってヒナノちゃんは一歩下がった。

「あんたさぁ、退屈そうな顔してるね。わかるよ、私も多分、好花に出会う前はそんな顔してたと思うもん。ダメだよ、そんな顔してちゃ」

 鈴花ちゃんはそう言って、両手でヒナノちゃんの顔を包んで、ほっぺをギュッと押して、ヒナノちゃんの口を尖らせた。そして楽しそうに笑った。

「あんたがつまらないと思っているその時間は、誰かにとっては、夜も眠れらなくなるほど、涙が止まらなくなるほど欲しかった時間なんだよ?だから、精一杯生きなくちゃ。そういう人たちの分も。あんたはこんなに可愛いし、きっと、優しい子だから」

 そうだ。この世界には、誰の目にもたまらず、消えていく命で溢れている。でも、意味もないように思えるその一つ一つだって、絶対に無駄なんかじゃない。私はそれを見逃さない。私たちがその人たちの分も、精一杯生きる。そして、全ての命はつながっていると、証明するんだ。

 誰かが笑った昨日が、誰かが泣いた今日が、誰かが望んだ明日が、未来の私たちを導いてくれる。命はそうやって、必ず何処かに繋がっている。

「…ふっ…ふうぇ…」

 鈴花ちゃんにほっぺを挟まれたまま、ヒナノちゃんは泣き声をあげた。

「え!?ごめん!え?なんか地雷踏んだ!?え、ちょっとごめんて!泣かないでよ!」

 鈴花ちゃんはヒナノちゃんのほっぺから手を離し、オロオロと慌てふためいた。

「ふえぇ~~ん…ふっ…ふえぇ~~」

 子供のような、周りを顧みない泣き方。顔を隠すこともなく、目からも鼻からも水分を流し続け、ヒナノちゃんは泣き続けた。

 菜緒ちゃんはそのヒナノちゃんの横に立ち、ヒナノちゃんの手を強く握った。

「大丈夫。大丈夫だよ。だから、泣かないで」

 菜緒ちゃんは必死に絞り出すように、しっかりと口を動かした。

「ふうぅっ…ごめんなさい!…菜緒…今まで…ごめんなさい!」

 溢れ出る泣き声を必死に抑えながら、ヒナノちゃんは何度も謝った。二人に何があったかは分からないけど、最後まで寄り添おうと思った。きっと鈴花ちゃんもそうなのだろう。しっかりと目を開いて、二人のことを見つめていた。

「ごめんね…菜緒…ごめんね」

「ヒナノ、大丈夫だよ…京子も、美玖も、柿崎さんも、みんな大丈夫だから。きっとまたみんなで笑える日が来るから。それまで、私とヒナノで…」

 菜緒ちゃんもまた、耐えきれずに、顔をくしゃっとさせて泣き声をあげた。

 泣きじゃくる二人。それを振り払うように、さっきまで私たちの頭上を覆っていた暗い雲がひらけた。隙間から眩しい光と、久しぶりに見る蒼空が顔を出した。

 私も、鈴花ちゃんも、泣いていた二人も、揃って空を見上げた。

「ようやく、梅雨も終わりかな」

 眩しい太陽に手を伸ばして、鈴花ちゃんは嬉しそうに言った。

「ほら、二人も、もう十分泣いたでしょ」

 鈴花ちゃんはそう言いながら、二人の頭を撫でて、それからギュッと抱きしめた。

「ほら、史帆さんも」

 鈴花ちゃんに手招きされて、私も三人に近づいて、そっとその輪にしがみついた。

「もう、まだ仕事中なんだけど」

 私がそう言うと、鈴花ちゃんは「あっはは!」と笑った。

「そうだ、三人とも、今週末にね、この病院にお笑い芸人さんたちが来るんだよ。無料でライブをやるから、見に来ない?」

 鈴花ちゃんは私たちから離れて、スマホでスケジュールを確認した。

「いけます!やった、友達も連れて行こうかな」

「やった!、絶対面白いから、いっぱい連れてきて!」

 鈴花ちゃんは「楽しみだなぁ」と言って笑った。菜緒ちゃんとヒナノちゃんはまだ少しだけ体を震わせながら、手で目元を拭っていた。

「二人にも、来て欲しいな」

 菜緒ちゃんは私の顔を見て、「でも、ちょっとまだそういう気分じゃ…」と言って俯いた。

「あのね、二人のこと、京子から聞いてるよ。今がどれほど辛いか、私は全部理解してあげれる訳じゃないけど、辛いのはわかるよ。だからこそ、二人は前に進むべきだと思う。今まであなたたちを支えてきた人達のためにも、あなたたちは、笑っているべきなんだよ。鈴花ちゃんも言ってたでしょ?あなたちは、幸せになる努力をするべきだよ」

 高校を卒業する間近の、あの遊園地で、私が正恭君の言葉に救われたように、私は彼女たちの背中を押してあげたかった。

「だから、笑おうよ」

 私がそう言うと、菜緒ちゃんとヒナノちゃんは手を繋いだまま、少し顔を合わせて、確かめ合うようにゆっくりと頷いた。