いかにも唐突で時期も外れたお題だが、なぜか急に思い出した。
今日の雨の降りようが、私が見に行った日の降り方と似ていたからかも知れない。
当時、私はまだ会社勤めで、得意先管理する物件の空家管理のような事もしていた。
多くは家財道具の多くを残したまま転勤したお宅で、月に一度空気を入れ換えたり、家の内外に異常は無いかを確認する作業だった。
私の生活圏は神戸からさほど離れていないにも拘わらす、殆ど被害の無い地域で、震災後に避難や生活物資の買い出しで移動された方の「一駅二駅で、そこに普通の生活があるのが信じられない」というインタビューが強く印象に残っている。
震災が起こった数日後、先の得意先からの依頼で、西宮の戸建てを確認に行く事になり、車は通れないのでバイクを借りて向かったのだが・・。
まったくインタビューと逆の意味で同じ感想である。
100m進むと街の姿が変わっていく。
500mも進めば、幾度も通った道なのに記憶に無い瓦礫の山に変わっていくのである。
私は大人になってから泣いた記憶が無かったのだが、涙とは悲しいとか辛いとか、感情が高まって出てくるものだと思っていた。
だが、この時の感情は「唖然」と「信じられない」だけだったと思う。
大げさに言えば、人の涙とは魂の叫びかも知れない・・と今になってはそう思う。
大の大人になってから、自分が泣きながらバイクを運転している姿って、想像したくも無いし見たくも無いですが、雨で流れていきましたと言うオチ。