白夜の季節で午前O時を過ぎても、ほんのすこし夕方の気分が訪れる程度ですから、町の人々は、レストランやカフエでスコーナ(ややウォッカに似た蒸留酒)を飲み、サーモンやオオジカの肉を肴に語り明かします。六月という湿度の高い梅雨の日本から、この別天地にやってきたのは、一橋大学教授一名、日本芸能実演家団体協議会常務理事、同じく事業部長、理事、各一名、電通総研から一名、それに私でした。


文化経済学会は現在アメリカのアクロン大学に事務所をもち、プレジデントは同大学のベントン教授です。『文化経済』という雑誌を刊行し、二年おきに国際会議をもって文化経済の理論・歴史・文化政策の研究を行っています。今回のテーマは①文化政策と文化計画の評価②経済発展における文化の役割③文化関連商品とサービスの国際取引④文化関連商品とサービスの消費者という四つの分野にわたっていました。これらのテーマをみると文化経済学は主として文化政策と文化関連の商品、つまり文化ビジネスを対象としてきたことがわかります。まず文化経済学が対象としてきた文化政策とそれをささえる経済的な基礎や財政的な基礎の問題を中心に考えてみましょう。


日本では文化政策や文化計画という公共的な政策の領域はまだまだ未開拓の分野です。その上に、日本の文化関係者の間ではかつて「おかみ=国家主義的な権力」から文化を統制され、戦争に協力させられ、しかも入場税という税金をバカバカとられて、ひどい目にあった、もう政府とかかわるのは御免だ、という思いが強く残っています。それだけに日本では文化政策を論じてゆくにはまだ時間がかかることでしょう。


第二次世界大戦後の欧米社会では公共政策として文化の問題を考えるという習慣が定着していて、文化政策ぱ芸術文化の専門家と芸術文化を愛好する国民とが自発的に組織をつくって考えるものであり、それを政府や自治体や企業が支援するのが自然であると思っています。ですから文化政策といっても日本人が受け取っているように、重い感覚で文化政策という言葉を受け止めることは稀です。むしろ日本流の感覚からいうと、文化政策は「民間事業として文化組織をつくり経営するための政策」というような気楽な意味で使われてきたように私には思われたのです。


あとでラスキンの文化経済学を説明する際にたちかえりたいと思いますが、文化経済学の原型は「文化の享受能力を育成されつつある消費者の需要と創造能力を育てて、文化的欲求に応えつつある生産者の契約関係」を取り扱うことでした。企業文化や芸術文化関係市場が大規模に発展しつつある状況のもとで、この両者の関係を調整し、支援するのが政府や自治体の文化政策であるということが言文るのかも知れません。

布地は日本製のものがなかったので、進駐軍の放出品を使ったり、上野駅近くの「アメ横」に行って探したり。デザインから布地の仕入れ、仮縫いまで何から何までやりました。でも、同じような店がほかになかったから、評判になりましたね。そのうちに、だれかの紹介で進駐軍の将校の奥さまたちから声がかかるようになりました。どの家にも大きな鏡があって、その前で洋服を全部脱いで、下着だけになって仮縫いをする。「日本人とはずいぶん、違うんだなあ」と思ったものです。日本では、服を仕立てる時でも、小さな鏡で顔に布地を当てて、色柄と顔映りを確かめるだけでしたものね。和服は同じ形だから、形を確認する必要がないでしよ。全体のシルエットを見ながち細部を調整する洋服との違いを、実感させられました。


その奥さまたちが型紙を持ってくるんです。それが、洋裁学校で習ったのとは全然違う。「変な形だなあ」と思いながら組み立ててみると、立体的な服になるのね。体の線に合わせて立体裁断して作った型紙だった。日本の服は畳める平面的な服でしよ。本当の洋服をアメリカ人に教えられました。仕事をやりながら服のことを覚えていって、面白くて面白くて仕方がなかった。ところが、しばらくして税金の督促状が来たんですよ。儲かった気がしていたから、布地なんかをどっさり買っちゃって、蓄えなんかなかった。夫にSOSを出したんです。


夫は「バカだな」と言いながら、手伝ってくれて。そうするうちに、いつの間にかお店が株式会社になり、夫が社長、私はデザイナーに納まっていたのです。細部に厳しい映画 何よりの経験に東京・新宿の店に、珍しく男性の二人連れが訪ねてきたのは、五〇年代初めでした。日活映画の美術監督と衣装部の方で、「映画の衣装をやってみないか」というお誘いでした。「面白そう」と即座にお引き受けしたんです。最初に手がけたのは五四年の宮城野由美子さん主演「かくて夢あり」でした。五〇年代は文芸大作が次々に封切られた日本映画の黄金期です。小津安二郎さん、吉村公三郎さんといった監督さんたちとご一緒しました。今のように女性がどこへでも自由に行ける時代ではなかったので、監督さんたちの目を通して世間を教えて頂きましたね。


銀座のバーで働く女性の衣装を作ることになった時も、どんな服を着せてよいのかわからないわけ。夕方、数寄屋橋のたもとで出勤する女性の姿をスケッチしたりしたこともありました。映画のアップで映える襟元や袖口、裾といった細部の表現や色に気を配らなきゃいけない。限られた時間と予算の中でたくさんの服を平均点以上に仕上げるというやり方は、その後の服作りに役立ちました。ドラマに服が合うかどうか厳しい目で評価する人たちがいたのも、何よりの訓練でした。


「狂った果実」の石原裕次郎さんや北原三枝さん、日活ニューフェースだった吉永小百合さんらずいぶんいろんなスターの方と仕事をしましたよ。分刻みのスターのスケジュールの合間に、お手洗いの小さな鏡に向かって仮縫いをしたこともあります。銀座にも店を開いて、同時に四、五本の映画衣装を担当した時期には、「日活や東映は新宿で、松竹は銀座で」とシナリオを持って走り回りました。せっぱ詰まった生活でしたが、鳥が巣に帰った時のように、家に帰るとホッとしたものです。結婚直後と二十九歳で産んだ二人の息子は、店の近くの幼稚園に預けました。家事はお手伝いさんを頼みましたけれど、幼稚園の迎えは必ず私。でも、スターの予定がずれると遅くなってしまうんです。うちの子だけが砂場でぽつんと遊んでいる姿は、ちょっとつらかったですね。

表に出にくいケースとしては、いわゆる事件屋のような商売があり、そういうところで非合法な決着がっけられることもあります。そういう事件屋の利用は、結局のところ、被害者がさらに食い物にされたり、悲惨な結果をもたらします。日本では、伝統的にそういう事件屋を取り締まる必要かおるという観点から、弁護士以外は事件に手を染めてはいけないという「非弁取締」、つまり弁護士にあらざる者の紛争事件への介入を取り締まる法律があります(弁護士法七二条)。


ところが、現実には日本の弁護士の数が少ないために、幅広い事件に手が回らず、結局のところ、いまだに事件屋、もしくは事件屋まがいの人々による事件処理を許す結果になっています。このように、日本で起きている下ラブルや問題のおおむね八割以上が、正しい法的な手続(すなわち「司法」)によって解決されていないので、逆に司法が機能している(問題を解決している)のは二割程度ではないかと言われます。


そうしたことを指して、日本の司法は「二割司法」であるなどと評されているのです。あるいはもう一つ、これは私の解釈ですが、この二割というのには、司法の場で解決される場合でも、「十割の救済はされず、二割程度で満足しなければならない」という意味もあるのではないでしょうか。その意味でも日本の司法は「二割司法」ではないかと思います。そうなるとますます、そんな難しい相手とはなるべく関わりにならないようにするのが、今の日本での「賢明な生き方」になってきます。