車窓に人の姿が見えなくなると、前日までに降り積もった雪で白銀の世界が広がりだした。なだらかな山が幾重にも連なる手つかずの大自然のなか、朝鮮族の運転手はためらう素振りも見せずに全速力で突っ走った。少しでも運転を誤れば谷底に転落する大惨事となるが、乗ってしまった以上、運を天に任せるしかなかった。延々と続く山並み。昼すぎに大きな峠を越えたところで、平坦な山脈から一つだけ突き出た細長い山が見えた。白頭山だ。頂上付近が積雪で白くなっている姿から、中国で長白山と呼ばれるのも無理はないと思った。陸の孤島、長白県に着いたのは夜の七時ごろ。一〇年前に泊まった朝鮮族の女性社長が経営するホテルを訪ねると、朝鮮語が通じないホテルのフロントで、彼女はホテルを売って山東省に移住したと知らされた。韓国の企業が経営するある工場の支配人になったそうだ。


翌朝、町の中心にある市場の前で、延吉市で紹介された朝鮮族密輸商と会う約束をしてあった。恵山市からの脱北者は彼らの助けがないと、朝鮮族の多い延辺や大都市に逃れることができない。現れたのは四〇代半ばの女性だった。身を刺すような冷たい風が吹き荒れるなか、彼女と一緒に鴨緑江まで行き、川沿いを歩きながら、対岸の恵山市の事情を聞かせてもらった。「ここ数年、脱北者は少なくなっている。取り締まりも厳しくなったからね。むしろ、恵山から来る強盗のはケが問題かもしれない。数週間前にも強盗が現れ、川の近くに住む小学校教師の一家を皆殺しにして、現金だけ盗んでいった。恵山では食べていく手段もないから、どんどん物騒になっていくみたい」

公明党の政権参加にともなって表面化した政教分離問題は、自民党の支持基盤に大きな亀裂を生んでいる。これまで自民党を支援してきた立正佼成会や霊友会など有力宗教団体は、前回の総選挙に際してほぼすべての選挙区で自民党候補者を応援した。


これらの宗教団体は公明党の支援母体である創価学会と鋭く対立してきた歴史があり、当時、自民党が「新進党は創価学会と一体」との批判キャンペーンを繰り広げたことに同調したためだ。それだけに自公連立に対しては、「掌を返したような仕打ち」と怒りを隠さない。


立正佼成会は、連立政権を容認できない理由をQ&Aの形でホームページに掲げた。霊友会は連立推進に積極的だった議員を応援の対象から外すことを確認した。


約十二万人の自民党員を抱える仏所護念会は、九九年十月の自自公政権発足を機に、同年度の党費不払いを決める一方、自民党の候補予定者を、①応援する人、②絶対に推せない人、③対立候補者を見て判断する人-の三つに分け、投票の際に差をつけることになった。


政教分離問題は、衆院議員の任期が切れる二〇〇〇年十月までの解散・総選挙をひかえ、にわかにホットな問題として浮上してきた。「小渕後」の森政権は、公明党に自由党から分裂した保守党を加えて、自公保連立でスタートしたが、連立内部で公明党の発言権が一段と強まり、政権運営のあり方に新たな問題を投げかけている。

ところで、ここ二年ばかりの間にわが国の金融システムは驚くほど大きく変わってしまった。新聞やテレビの報じるところでは、わが国の改革のテンポは遅く、外国からあきれられているように見えるが、後から振り返ってみればそうではなかったことに気づくだろう。


過去における改革努力が小さかったわけではない。微力ながら私も、その一翼をになってきたつもりであった。決して行政が既得権を守るためだけに奔走したわけではない。改革の必要性を痛感しながらも、生活の懸かっている現実の社会を、説得という手段で調整しようとすれば時間がかかり妥協が必要になる。


しかし、この二年間の激変を見ると、われわれが手順を踏みながら苦心惨慣したあの改革の努力とは何だったのだろう、との思いが湧くのも事実である。長期信用銀行のうち二行が破綻し、制度としての実体はなくなってしまった。いや、あの頃すでに実体はほとんどなくなっていたのだが、あの時の改革では結局現実と妥協せざるを得なかった。


銀行と証券との間に、子会社による相互乗り入れの道を開いた。しかし同時に、それをやりにくくするための様々の工夫をしなければならなかった。ところがこの二年の間に、あれほど強固だった証券四社体制は崩れ、多くの証券会社が銀行・外資の傘下に入った。


なぜこのような急激な改革が進んだのか。どうしてもっと前にそれができなかったのか。一言でいえば、「暴力なき改革」の限界であった。結局、伝統的な金融行政の手法にはやはり限界があったように思う。われわれは改革を進める場合にも、ひとりも溺れる者のないように、段階的に手順を踏んで進めてきた。護送船団方式と批判されるが、それはいわば共生の方式である一物事の処理に際し「和」を尊ぶわが国においては、このような考え方が政治や行政を進める上で長い間尊重されてきた。