秋北食堂にて最後の鶏モツ煮定食を頂いた後向かったのは大館市役所斜向かいの建物。



市役所側から見ると交差点に向けカーブを描いています。



戦後度々市街地を大火で焼失した大館市。

最初の昭和28年の大火の後に行政指導のもと建設された防火建築帯の連鎖店舗の一部です。


以下日本建築学会の論文より引用。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/80/713/80_1707/_pdf/-char/ja


火災に強い鉄筋コンクリートの建物を帯状に造り火事を堰き止めると言う方法。

下記地図の第1団地として作られた連鎖店舗。

連続した鉄筋コンクリート二階建て建築物として作られました。







実際にその後の大火で延焼を防ぐ効果がありました。

その後連鎖店舗は街の発展や売り上げの伸びに伴い店舗毎に改装や建て替え姿を変えてゆきました。



私が住んでいた昭和50年代前半までは次の交差点までほぼ同じ外観の建物が続いていました。子供心に連続した商店街に驚きましたが現在面影はほぼありません。



しかし残されたこの一部だけでも当時最新のデザインだった街並みを偲ぶ事が出来ます。





角の店舗は食堂として営業していましたがこの日は休業か?なんとなく閉店したようにも見えましたが。

その後昭和31年に再び大火に襲われた大館市。
鍛冶町の商店街も連鎖店舗で復旧されますが


こちらは壁や後部を共用しながら前面や上部は独自のデザインとし個性を競いました。



当時鉱山や林業の集積地として繁栄していた大館市。そのメインストリートに商店街の勢いを感じました。









しかし昭和60年代木材、銅、亜鉛鉱石の価格低迷と輸入自由化で鉱山は縮小、閉山。商店街のみならず大館市も活気を失います。



かつて人気を誇った菓子店も閉業して久しく。

しかし失われた30年。商店街が繁栄していた時代を知らない若い人にとっては興味の無い話。

懐かしむのは住んでいた余所者だけなのでしょう。



1960年代英国のアイドル歌手的存在のマリアンヌフェイスフル、1985年のセルフカバー。もう40年も前か!