生存報告、というか、心配されておられた方もいらして、なぜかログインできたために、生存報告。ログイン出来ない方はChromeから入ったら状況が変わるのかも知れない。
将棋が早く終わってしまって、なぜか書けているのだが、生存報告と共に、モーニングページがどうなっているのか?とか、ネドじゅんさんの会員になるのかどうか?とか、そんな話。
モーニングページ(最近はモーニングノートと呼んでいる人もいるらしいが)、偶然、何ヶ月か前に、え?っ、という動画があった。それはモーニングページの長さの問題についての、ある方の証言のことである。
動画主さんの話によると、その方のご友人が、モーニングページの家元であるジュリア・キャメロン女史の講座を受けに行ったという話である。
それによると、ご友人という方が、ジュリア・キャメロン女史に直接質問したのが、モーニングページの長さについてである。
モーニングページの邦訳版だと、A4のノートに3ページ書け、と書いているのであるが、家元の答えによると、それは英語の話であって、日本語だと、その長さは大変なんではないか?と。英語の場合はA43ページは妥当であるが、日本語の場合だと、30分書いた量のページでいいんではないのか?というのが、えっ?っとなるジュリア・キャメロン女史の返事であったというのだ。
ジュリア・キャメロン女史が日本語を使えるのか?とか、漢字を書くのか?ということは、その動画の情報にはなかったのであるが、多分?ジュリア・キャメロン女史としては、漢字を書くだけで、アルファベットとは違う時間が必要なのではないか?というイメージはあったのである、と想像するのは、そんなに不自然ではないと思う。
そんな訳で、自分でもいろいろ試していたのではあるが、A4の1ページに対して、だいたい時間は25分前後要るので、上記の話からすると、日本語で日本人がモーニング・ページをやるならその位を目安にして取り組めばいいのではないか?と思う。あくまでも、家元であるジュリア・キャメロン女史の話からすると、そんなものではないのか?と思う。
モーニングページの肝というのは、思考の速さを落とす、ということに意味があるのであって、それは多分、左脳の処理スピードを落として、右脳の処理速度に近くする、という話ではないのか?と、自分が家元の邦訳版を読んでみた限りの話なのではあるが。
それは、コリン・ウィルソンの言っている話と、時の人となりつつあるネドじゅんさんの話からすると、そうかのではないか、と感じるのである。
因みに、ネドじゅんさんは左脳の処理速度を落とすという言い方はされずに、自動思考を止める、という風に主張されていて、それがそのまま、コリン・ウィルソンやジュリア・キャメロン女史の言い方と同じという訳ではない。
だが、それらを自分が受け取ってみて感じるのは、それらは「自己疎外」に対する、傾向と対策である、という風にしか思えない。具体的にどれをどうやるか?という話はそれぞれに違うし、人によっては、また別のやり方で、それぞれにされているのだと思う。
自分にモーニングページが合っているのかは分からないのだが、起きたらやる、ということで、習慣化されて、続いている。自分にはあまり適正がない、あるいは、そもそも創造力に恵まれていないだけなのかも知れず、誰でも続ければどうにかなる、という話ではないと思う。
いずれにせよ、問題は、存在としての自己疎外を取り扱っている、というのが共通点であって、やり方はそれぞれで、他にも自分の知らない方法で、同じ問題に取り組んでおられる方々は多いと思われる。
ネドじゅんさんのサービスに入るのかは、まだいつからとは決めていない。本当は、フェルデンクライス・メソッドを復活させたいのであるが、どうもこの数年の流行り病の時代を経過すると、zoomで行うものが増えて、比較的近所で、直接受けられる講座が発見出来なかったというのはある。
フェルデンクライス・メソッドを受けるために大江戸線に乗るというのは、レッスンの結果の意味が無くなるし、それならネドじゅんさんの三脳バランス研究所に参加した方がいいのではないのか?と、今のところの妥協策として思っている。
とりあえず、たまたまログイン出来たので、生存報告と併せて、最近の取り組みで迷っていることを書いてみた。
心配された方にも失礼であったが、なぜかログイン出来ないという方は、アプリケーションを使わずに、Chromeからログインされるというのは、試してみる価値はあるかも知れない。
乗っ取り?とか、背乗りの選択肢作り?の類いかも知れないとも思っていたが、別にパスワードを間違えていた訳でもない。
とは言え、ログイン出来たとしても、大したことを書く訳でもないので、最近気になっていることを書くくらいである。
生存報告ということで、心配されていた方に申し訳なく思っている。
次回、ログイン出来るのかどうかは、また別の話である。