明らかに変わった日常と発想。この二年間で変わらざるを得なかったこと | 巡礼者のブログ

巡礼者のブログ

ブログの説明を入力します。

結局徹夜で爆睡。施設に顔を出す。買い出しはしないというか、最近、お金さんを使わないという日が多い。地域経済に貢献していないというか。品物を見ても、ホントに要るのかよ?と考えてしまうので、食い物さんすら買わない日が多い。


お金さんというもの自体が洗脳である理由は理解しているのだが、使わないと周りの人、地域は困る。お金さんは洗脳と理解している人は多いのだと思うが、それでも、少なくとも全く他人の関係の場合は、お金さんが絡むことは多いので、使わざるを得ないということだと思う。


このご時世で決定的だったのは、流行り病⁇で、国境が封鎖とか、家から出るなとか、いろいろあって、生産とか流通も止まってしまい、時間自体が止まってしまった、ということがある。


現状のお金さんというのは、利ざや、というのは、時間の関数というか、時間が流れる、時間は実在するという前提で動いていた訳であるから、時間が止まる、ということで、多大な損失が出る。


その様な事態もあって、いよいよ、お金さんというのは、実は機能ですらない、というのを、かなりの人が実感したのだと思う。


仕事の通勤にしても、通勤するな、という時期があったし、今ではそれも当たり前のところもあるだろうし、何で通勤があったのか?と考えれば、同じ場所に来させて、座らせて、管理し、「支配するために」通勤というのがあったのだ、ということに思い至る人も多いのだと思う。


その様な訳で、通勤がバカらしい、とか、そもそも仕事とか拘束時間というのはなんなのか?とか、お金さんがあっても、こういう事態では、お金さんがあっても役に立たない、と感じた人も多いと思う。


そんな訳で、きょうは激安のIH圧力式炊飯器も見てきたのだが、「ホントに要るのか?」と、レビューなども調べたりしながら、評価も高いのに、「ホントに要るのか?」の一言で、終わってしまった。あすも見に行くのかもしれないが、その一言で終わる可能性は高い。


そういう認識というか、実感というのが、ある意味では達観なのかもしれないが、経済的には、少なくとも地域に貢献していない訳である。極端に言えば、ある種の危険思想?というのが、「ホントに要るのか?」という一言なのである。そういう人が増えれば、少なくとも、消費者でいる時の、そういう人が増えれば、経済崩壊の一因にもなりかねない話なのだと思う。


というなんとも不毛な認識にあって、しかし、極貧の自分からすると、ある意味、ある時点では、身を助ける、という話ではある。中期的に見れば、少なくとも地域経済には悪影響である。


まあ、では、どういうところにお金さんを使うのか?というと、なるべくマスターのお店さんに行くとか、その様なことしか考えられない。


マスターのお店は、地域のある種の聖地でもあり、人間の顔をした人たちの集まるお店さんである。しかも、このご時世を、なんとか生き残ったお店さんである。お客さんたちの変わらぬ支持があるからである。ある意味では、マスターのお店さんに行くのは、地域文化の存続と継承の意味がある。


炊飯器は、いくらでも代わりはあるが、マスターのお店に代わりはきかない。少なくとも、unique oneであることは間違いないのである。


これからの時代というのは、お金さんを出せば、お金さんがあれば、多くのものが手に入るという時代ではなくなる。少なくとも、これだけサプライチェーンというのが崩壊していれば、そして、それに対して有効な対策がなければ、お金さんでなんでも手に入るという風にはならない。それは既に始まっているのである。


そういうことで、お金さんを出すなら、unique oneに、という風になっていくのだろうし、お金さんを出しても手に入らないものもたくさん出てくるのだろう。関係性とお互いの評価や信頼がなければ、売らないという風になるのだろう。それさえあれば、お金さんは儀礼程度、というものもあると思う。


言い方を変えれば、市場化、という時代が終わるのだと思う。お金と利ざやでは評価できない、あるいは、させないものが出てくるのだと思う。


歴史を見れば、宣教師が来て、商売人が来て、とか、いきなり大砲撃ってやる、と野蛮な脅迫をすることで、何にでも値段をつけさせることで、強奪する、という時代ではなくなっていくのだと思う。


そうなると、一つ大切なこと、しかも忘れられているもの、というのは、「自尊心」ということだろう。自己評価、などという、他人と較べることの延長線上ではなく、ワンネスだからと実感もない根拠に依るのでもなく、寧ろ、「全く根拠のない自尊」というものが重要になるのかもしれない。


根拠が必要ない、というか、自尊心などという言葉もなく、勝手に自分がいるだけ、というのが「自然」というのが重要だと思う。


それを害するものがいたら、戦っても、逃げてもよくて、勝手に生きてる、ということが当たり前、というのが大切だと思う。


そんな訳で、時代は完全に変わったな、という感覚と、そんなに遠くない時期に当たり前になっていくこと、というのは、既に日常にあるのだと思う。