あるがまま、と、否認 | 巡礼者のブログ

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ダラダラ、というか、このところの日曜のハイライトは、原田さんの大和算の時間。でも、どうも、その意義について、あるいはこの先の人類について、まだ理解していない人がかなりいるのではないか?という原田さんの話で、大和算の講義ではなかった。原田さんの長年の視点の復習というか、今がどういう時であるのか、という話。


世間的には、自分の場合はスピリチュアル系となるのかもしれないが、この数年はハードなお役目はない。今は、お役目ではなくて、からださんとか、こころさんとかと、個人的に話す、という日常で、そのやり方を、もうちょっと一般的に、普通の人がやれるやり方はないのか?という研究というか。


コロナだ、オリンピックだ、汚染水放出だ、という、めちゃくちゃな日本。それを少なくとも有権者が許している、というか、利権屋が、今さえ、カネさえ、自分さえ、と判断してる。東電にしても、厚労省にしても、感染研にしても、この体たらく。


この辺りの構造については、最近新刊で出た安冨先生の「生きるための日本史」が、分析な有効であるのだと思う。


普段から安冨先生の立場主義についての話は聞いていた。その「立場主義」に特化してまとめた本が、この新刊。まだ読了していない。特化した本というのは、普段の理解と併せて読めるので、本として出たのは幸い。


毎日、タラタラ、勉強、という感じで、教材と時間があるだけが救い。しかし生命として、自分に救いがあるのか?というと、多分そうではない。


生命として、というのは、今生では、なのであるが、からださんが死んだあとの在り方は、何度か体験しているので、死が怖いというのはなくて、死に方があんまり苦しいのは嫌だが、死そのものは偉大だと思う。


今生をどうするか?というのは、今のところは勉強しかない。勉強とは別に、多分、今生は、エロスの方には行けないのだと思う。しかも、死んだ後の在り方は、とめどもない光と快感の世界なので、今生はエロの方は無理なのだと思う。また人間に生まれることがあったとすれば、そこからやり直しなのだと思う。


これからバブルが来るというか、その時、日本人は、また問題を忘れて、ヘタをすると、コロナのことまで忘れて、問題そのものは先送り、というパターンになるのかもしれない。多分、確かなことは、少なくとも、戦中の日本と本質的には何も変わっていない、という事。というか、寧ろその在り方が強化されているというか。


そういう絶望感があって、その中で、どう今生を生きるか?というのが勉強なのであるが、頭は悪いし、若くないし、単なる変人だし、勉強は一人でタラタラやるしかない。


幸いなのは、端末とネットがある時代で、そこに教材があること。それは若い頃とは、まるで条件が本質的に違う。特に、ある意味のアウトサイダーで、しかも包括的な話をする人たちというのが、今のところまだ、存在して、アクセス出来る。そんなに遠くなく、それも出来ない時代になるのだと思う。更には、別のコミュニケーションの時代が始まるのだと思う。そういう時に、自分が普段やっている、からださんとか、こころさんとか、存在さんとかと話すやり方は、意味が出てくるのかもしれない。


きょうの原田さんの話は、もうアップされていたら、もう一度聞き直しの時間になる。


絶望感を充分に感じた上で、今生にやれることを吟味しないといけない。絶望感を否認してはいけない。


いちばん恐ろしいのは、「否認」である。これがコミュニケーション不全の最大の問題であり、しかも、ありがちな事だと思う。


あるがままを見つめること、感じること。これがコミュニケーションの前提である。


否認というのが、如何に破壊的か、それをよく知っているつもりである。そして、それが現実となっているのが、少なくとも、今の日本である。