施設の周り撮っても、iPad mini4で見ると、やっぱりグロいというか、この世の終わりというか。植物とか撮ってても、そういう結果に終わる。もちろん、いい光は、そういうものとして撮れない。150枚は撮って、全てそういう結果だから、どうにもならない。
きのうはiPhoneのそういう特性を活かして、グロく撮るのは上手くいっていた。何でもないものが、グロく撮れるというか、これが都市社会の現実というか。
そういう意味では、普通の人がカメラ、ましてやフィルムカメラなぞ持たずに、iPhoneで日常を撮っている、というのは、象徴的なことであると思う。
しかし、iPhoneが語る現実を、普通の人?はどの様に見ているのか、感じているのかは知らない。というか、普通の人?には、そんな事はどうでもいい事なのかもしれないし、異常な自分には、過剰に異常に感じられてしまうだけの話なのかもしれない。
そういう「生きられない現実」を撮るために、普通の人がiPhone買い換えてるのかは知らない。というか、多分、そこには「生きられない現実」が写っている、とは感覚していないのだろう。
あるいは、普通の人?たちが作り上げた「現実」を、iPhoneは性能に忠実に撮ってくれているだけなのかもしれない。
いま、今日撮ったのを見直していても、「悪夢」にしか見えない。「モノ化」と「記号化」の悪夢。だが、視点と時間を動かしてみると、そこに写っているのは、ある種の芸術かもしれない。「モノ化」「記号化」を、そのものとして捉えているのだから、ある種の直視である。
こんなところで生きていても、意味がない、と思う。