抵抗に翻弄されながら、抵抗を感じ切って、解放する | 巡礼者のブログ

巡礼者のブログ

ブログの説明を入力します。

ほぼ徹夜。施設は諦めた。昼に起きて、結局またセドナメソッドの原文を読むが、抵抗についての章を読んでいた事もあり、「抵抗」=resistanceに翻弄された日。しかし、これはチャンスである。

一休さんが、(屏風のトラさんを縛れというなら)屏風からトラさんを出して下さい、と言ったという話があるが、トラさんは出て来たが、トラさんを縛るのでなくて、「解放する」という作業はしなかった。

抵抗というトラさんを、そのままにして、観察だけする。なかなか苦しいというか、抵抗さんがこれだけ層になってるなら、そりゃ、タバコさんも吸うわな、というエネルギー状態。

オレみたいに感情の薄い系の人は、体感に注目する、という道はある。体感もない、という人は、どうやら原書を読んでいると、その体感のなさや、感情の薄さを感じて解放する、という道はある様だ。

セドナメソッドで言う、方法論的な手続きは一切せずに、セドナメソッドの家元のレスター・レヴェンソン流に、その感じを「感じ切る」というやり方にしている。

結果としては、その幾層もの抵抗の塊を、それなりに解放できた体感ではある。だが、前回の様なオーラまでもが、怒りに似たエネルギーとして感じらるる、という程ではなかった。

ただ、結果として分かったのは、オレの場合は、幾つもの作業を並行するのが、実は合っている、という体感になった事だ。というか、基本的に、ヘンな集中の仕方をしてしまい、その後が泥沼化するパターンがある。

そこで、ある程度浅い認識と感覚で止めておいて、隣の作業に移る、というのが合っているのだと思う。言い方を変えれば、女性的な資質があるのだと思う。同時並行的に幾つかの作業を進める、という能力である。

そうすると、感覚はあまりおかしくならない。幾つかの兆候に、同時に反応して、それぞれの感覚や作業を、少しずつ処理する、というやり方になる。これで、ドツボ状態を避けることはできる。

だが、きょうは、この抵抗の問題こそが、オレの最大の課題の一つだ、と認識した日である。昼間は、もう抵抗で、ホントにおかしくなっていたのだが、その抵抗の感覚を感じ切ることで、なんとか今日を乗り切った訳である。

抵抗の問題は、これからも続く筈なのであるが、とりあえずは、「お気楽でいる」というのが重要なのだと思う。一つのことから十を学ばないといけない?というより、十を兆候で捉えてしまう体質というか、まさしく持病の統合失調症系というか、そういう事情がある。

結果としては、「十の兆候を、全部感じても良いが、そのうちの一つから、また十を発見しない様?にする」というのが、今のところの対策である。主治医は、セドナメソッドの原書を読むのをあまりよろしくない、と言っていたのだが、それは、オレの体質と生活から、主治医は理解していたのである。

今回は、オレの場合は、感情より、抵抗に着目して、それを実感し切ることで解放する、という手順が合っているのだろう、という捉え方になった。そうすると、今はだいぶお気楽である。

原書も、かなり流して読めるので、流して読んだら、邦訳も流して読む、というやり方になる。あるいは、音源も聴いたり、将棋も観たり、と、なるべく短時間で切りかえて、幾つかのチャンネルを同時に扱うと、だいぶ楽である。

明日が忙しいので、きょうは徹夜さんはしない。きょうはきょうの結果として、また明日は違う生活の日になる。一週間が、曜日ごとにメニューが違う、というのは、オレには救いがあるのだと思う。

システムを復活させて、音源を聴くことで、生活もだいぶ違う。やはり、音源をシステムで聴く、というのは、実感を求めるタイプであるオレには必要なのだろう。iPhoneでは足りないというか、なんだかんだと言って、ウチのシステムはそれなりのものになっているのだと思う。

きょうは、仏オコラの音源をそれなりに聴いた。特にイラクの‘ūd=ウードは深みがある演奏で、名人の手によるものである。仏オコラの音源は、Apple Musicでは、少しずつ増えていて、これは有難い。ただ、仕方のない事だが、LPのオコラに較べると、質感が足りない。これは、デジタル化された音源の致命傷ではあるのだが。

きょうも、特に貴重な音源は、迷わずに落として、ウードだけではなく、ユーラ・グレアのピアノも殆ど落とした。ユーラ・グレアの音源で貴重なものに、アルベニスの録音があるが、LPには入っていて、CDにはないのである。Apple MUSICには、それがあるので、貴重である。非常に素晴らしい、閃きを感じる演奏である。

あと一時間、セドナメソッドの本に取り組んで、将棋が終わったら寝る、と出来れば、とりあえずラッキー。菅井 永瀬戦は、まだ終わりそうにない局面である。