セドナ本の旧版を改めて少し読んでみる | 巡礼者のブログ

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横目で将棋のAbemaTVトーナメントを観ているのだが、伊藤女流は負けたし、何か後は流して観ているという感じ。

施設では、和訳のセドナメソッドを再読していたのだが、やはり、レスター・レヴェンソンの原語での記事を書いて下さる方がおいでなので、いろいろ英英辞典とか、英英和辞典とかで、基本的な言葉のニュアンスを詰めた作業の意味があったというか、そんな感じである。

今回は、タラタラ原書も、忘れた単語とか無視して流していたが、多分、原書を読む意味は、翻訳を読むにも意味がありそうである。オレの能力では難しいし、時間が要る作業ではあるが、一日二ページ読めれば上等?くらいの感覚である。

翻訳本の旧版の、三十七ページに、以下の様な記述がある。

...実際、何も感じられないと思っていたり、気が抜け、心が空虚で空っぽな感じがしたりしているとしても、怒りや不安などのもっとわかりやすい感情と同じくらいに容易に解放できるのです...

という記述は、実際にどうなのか?というのは、翻訳本の方ではなく、例えば、「レスターの物語」などを読んだ印象としては、レスター・レヴェンソンは、逃れられない死に対する絶望という、強烈な意識で作業していた訳である。

オレ自身も、前回、強烈な、怒りの様なエネルギーに、レスター・レヴェンソン的に注目し、観察し、そのエネルギーのど真ん中に飛び込むことで、結果的には、二歳からの脚フェチまでもが消えてしまう、という恐るべき体験をした訳だが、そこまで強烈なエネルギーでない場合は、今のところうまくいってはいないのである。

だが、上にある記述からすると、オレの様に、感情が薄い系?でも、取り組める、という話になっている。少なくとも、翻訳本の旧版では、そうなっているのである。

となると、その辺りから研究する、というのがいいのかもしれない。研究、というのは、実践の前に、その辺りの原語による記述の部分を見つけて、翻訳本=全訳ではない、で、カットされているとか、要約されている部分を見つけて、そこから取り組む、というのが、実践的かもしれない。

そんな訳で、何十年と自殺衝動と、死に向き合って来た人間としては、目的意識を持てないという問題もあり、とりあえず、邪道なのかもしれないが、状況から変えて行く、という選択をしてみたい、と思うのである。

死に向き合った時間が、余りに長いことから、発症して、そして、生き残ってしまった手前、もう生きる予定はなかったし、余りに強い感情?感覚?に慣れ過ぎて、結果として、感情が薄い、たいうのは、とりあえずは、「迂回する能力」を使う、というのが、治療としては、とりあえず一つの筋である。

セドナメソッドについては、主治医も医学的に有効である、としているけれど、それは、主治医のトラップ⁈かもしれない。何故なら、そういう記述を知らないからである。しかし、そうだとしても、使えるものは、何でも使う、という事で、それはそれでいいのだと思う。

とりあえず、施設で邦訳をタラタラ読んでいた感じとしては、やはり原書とそのニュアンスをよく読まないとダメだな、というのが、今のところの感じである。

それは、邦訳の都合から、その様に感じるのかもしれないが、どうも、都合だけではなく、省略せずに、原文と併せて翻訳されている記事も見ているので、邦訳の都合?というより、日本の出版界の都合で、ニュアンスが落ちている感じ?とか、ポイントに注目できない翻訳と編集のされ方をしている、と思ってしまう訳で、邦訳本=セドナ本は、ネット上の記事より劣る、と感じてしまうのである。

そんな訳で、個人的に、自分用に翻訳するしかないなー、と思う。とりあえず、原書の資料が入ったので、全く読めない英語で書かれてある訳ではないのを理解できたので、これは、タラタラやるしかない、と思った。タラタラでいい。

オレの能力では、翻訳は出来ないが、自分用に意味のある、ニュアンスのある訳が出来ればいい。作業としては楽ではないが、その上で、自分を実験台にすればいい。ついでに英語の勉強もできればいい、と、気楽にやるのである。

別にセドナメソッドでなくとも、他にやり方や、やる事はいろいろある訳で、とりあえずはセドナメソッドに絞ってみるか?というだけの話である。他にもっと意味があって、オレの資質や状況には向いているものがあれば、それは考える。

焦点は、「オレ向きに使えるやり方」にしてしまえばいいのであって、結果的に、セドナメソッドとは関係ないものになっても、それはそれでいいし、その方がオレはいいと思う。「常に解放しなさい」とか、レスター・レヴェンソンは言っているが、それは、ある種強迫的?というか、硬直している風に感じる訳で、そう自分で思えるというのは、意味のある事である。

あとは、全部やらなくてもいい、とか、途中で読む速度が上がるのは、充分にある可能性なので、その時は、作業の質も変わっていると思う。

まあ、面白いと思えば、タラタラやれるし、面白くなかったら、始めに戻ればいい、と、お気楽にやるのである。

今、ここ、という言い方は、最近多いし、オレ的にも、そういう発想はある。実際、ハートさんや、からださんと話してみても、「今」ってしてしまえば、その瞬間が苦しい、という訳ではない。というか、寧ろ、その瞬間とは、常に「空洞」である。

その辺りについては、今後も重要な視点となる筈で、その感覚と、原書のニュアンスがどうなっているのか?は、常に比較してみていく事になると思う。

全ては連続していると思えば、苦しい、という話になるし、それは、その人の状態によって、感覚は異なるものだと思う。多分。

いつも思う事であるが、「なぜ、オレはオレである、と思えるのか?」とか、これを書いていても思うし、過去に書いた事を読んでも、これ、オレが書いたの?と思うことも多い。

これと同じく、ほぼ毎日続けている、ジュリア・キャメロンの「モーニングページ」にしても、過去の記事を読んで、同じく、これオレが書いたの?と思う。

それくらい、自己同一性というのは、怪しいのかもしれない、と思うし、からださんと話しても、ハートさんと話しても、「ホントに、オレはオレであるのか?」と思うのである。

余談であるが、ハートさんと話せる様になったのは、ミヤBM錠とエビオスの処方が合っていて、毎日のボロボロ感が激減した後、セドナメソッドというより、レスター・レヴェンソン的に、怒りの様な強烈なエネルギーを観察し、受け入れて、その中心にダイブする、という作業の結果、ハートさんとの回線が開いたのである。この点はオレには画期的であった。しかも、幼児期からの脚フェチというトラウマが消えた。

という訳で、長年の治療の積み重ねもあるし、長く読んでいる、In deepさんの記事で、ミヤBM錠が使えるのではないのか?と思い、主治医が出してくれた事もある。それがなければ、レスター・レヴェンソン的なやり方、セドナメソッドの家元的なやり方は、そこまで上手く行かなかった訳である。

という訳で、過程というか、プロセスというか、そういうものはあるのであって、何でも、誰でも、特定のやり方や、お薬さんが合う訳ではないと思う。

それを思うから、セドナメソッドの原書を読むにしても、邦訳されているものとは、違う意味をもってくるのだと思う、オレ専用の訳、というか、ワンオフもの、というか、そこに作業の意味があるのである。