手塚治虫作品「紙の砦」「四谷快談」に思う | 巡礼者のブログ

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タラタラしながらも、世界コンピュータ将棋選手権決勝リーグを観る。高度な戦いで、しかも持ち時間10分だから、解説が上手くやってくれないと意味が分からないという時間。

先日、某所で、偶然に発見した、手塚治虫の「紙の砦」を読むのだが、あまりにリアルな戦中戦後の話なので、気合いが、つい入ってしまうと、辛い、ということで、ワザと流して読んでいるのだが、流しても、流して読めるという作品ではない。

紙の砦、という表題で、短編集として出ているのは、全く知らなかった。「紙の砦」は、手塚治虫の自伝的?というか、多分、本当の自伝なのだと思うが、この短編集全体が、手塚治虫の自伝である風にしか読めない。発売されたのは、昭和62年となっているから、そんなに、エラく古いという本ではない。というか、その年代になったから、ようやく?こういう、戦中戦後の自伝的短編集を出しても良い?という事だったのではないか?と、憶測する。

「紙の砦」は、手塚作品をそんなに読んだ訳ではないが、オレの感覚だと、ひょっとすると、手塚作品で、最もリアルで、哀しい傑作なのではないか?とすら思っている。あるいは、どうして、そこまでして、マンガとアニメを極めてしまったのか、という理由は、この作品にある様に思えてならない。

この短編集には、四谷快談、という短編も収められていて、初めて読んだのだが、戦中戦後の話の中で、手塚治虫的なエロスが表現されている。特に、お岩さんが、戦争で片目を失った少年の前に現れるのだが、特に、その場面で、手塚治虫独特の線で、お岩さんの美脚が見事な筆致で描かれている。

幼児の頃は、手塚治虫作品にあふれていた時代でもあるのだが、やはり、こういうエロスで、オレは脚フェチの変態度が幼児時代に深まった訳であるが、二歳の時に発症?した脚フェチがあり、その前後には手塚作品があるのだから、半分くらいは、手塚作品でオレは脚フェチの変態になったのだと思う。

こうして、短編集の手塚治虫に出会ってみると、やはり、戦争の極度の死の日常の世界から、何とか生き残って、その体験が、手塚作品を、エロスに満ちたものにしているのではないか、と思わざるを得ない。お岩さんの美脚が登場する、四谷快談、にしても、徹底的に生き延びる話であり、そして、手塚作品には、よく登場するテーマとして、鶴の恩返しの話である。このお岩さんを観ると、本当にこんな女の人と出会ってみたい、と心底思わせるほどに、お岩さんは描かれている。

手塚治虫作品の力の源泉とは何か?というのが、この一冊に込められていると思う。

そして、もう、本当に、戦争なぞ、しない、そして、豊かでありたい、とも思うのである。