奇跡のサバイバル生活という「とらわれ」 | 巡礼者のブログ

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主治医の時間。遠い方の施設は諦めて、タラタラ過ごす。心さんといろいろ話す。他の存在さんたちとも少し話す。

とりあえず、お蕎麦さんはないが、あと一食分、納豆うどんさんがあり、あさっては、友人の手伝いで、メシをおごってもらえるので、何とか今月もサバイバルできそうである。

心さんとは、サバイバルの事についても話したが、サバイバル出来てしまうのは、というか、毎回サバイバルをして生きているのは、ある種の記憶の問題ではないか?という疑問がある。

いろんな世界で、結構あることだが、例えば、野球なんかでは、大事なところで、バントを失敗して、それ以降、バントはずっと失敗で、バントが出来なくなった選手がいる。プロの話である。

失敗ではなく?成功の方かもしれないが、満塁になるとホームランする、という選手もいた。この選手は、アマチュアの時代に、大事なところで満塁ホームランを打っていて、それが、記憶というか、暗示?になってしまっているのではないか?とも思える。

バントを失敗する、とか、満塁だとホームラン、とか、ある訳だが、これって、失敗だろうが、成功だろうが、「記憶に支配されてる」って事だと思う。オレ的には、記憶に支配されない、というのも、治療の課題の一つでもある。

成功であれ、失敗であれ、記憶に支配される、あるいは、暗示の通りに動いている、としたら、そういうのは、「自由ではない」という事になる。更に言うなら、「奴隷状態である」ということだ。

オレの場合も、いつもギリギリでサバイバルできてしまう?あるいは、いつも、ギリギリの生活しか送れない、というのは、自由ではない、という事である。

浮浪者時代の暮らし、とか、幼児期の虐待の記憶、とか、そんな体験=記憶、が、オレを、ギリギリの生活の人、にしてしまうのだと思う。だから、もう、そういうのは卒業でいいや、というのが正直なところで、それに対する有効な手段の一つと思われるのが、大嶋先生の方法とか、著書として、参考になる訳である。

参考、というのは、治療は主治医とやってきたことが基本にあるので、その治療ベースで、他にも使えるものは使っていく、ということである。

で、某所で、大嶋信頼先生の新刊のレヴューを見ていたら、具合が悪くなった。体調が悪くなる、というのではなく、邪魔が入る、という類のものである。

レヴューの多くは、女性からのもので、しかも、殆どが、長い文章である。女性から、とか、長いから、という理由ではなく、多分、そのレヴューを書いている人と脳がつながってしまうのだと思う。まさしく、ミラーニューロン仮説である。

それは、書評とかとは別で、それが成功体験であったとしても、その書いている人たちと、その周囲の環境が、オレと繋がってしまう訳で、途中で、「ヤバイ!」と思って、心さんに聴きながら、読んでもいい記事を探したが、全部アウト!であった。

主治医のところでも、他の患者さんとは、一切関わらないが、やっぱり、そういうのが入ってきてしまうので、毎度、オレにとっては、苦行だったりする。しかし、近い体験とか、近い感情とかあるから、苦行なのだと思う。

それを一切、チャラにする?というか、聴いても、平常心でいられたら、回復、というか、凄い、という事になるのだが、もうちょっと健康?精神が健康な人たちと付き合う量を増やしていく、とか、なるほど、と思う、心さんや、他の存在さんたちの言葉、やりとり、に時間を使っていけたら、また違うのではないか?と思う。

別にバントを打てる様に、とか、満塁でなくとも打てる様に、という事ではなく、一切、とらわれがなく、自由、という感覚で生活できるといいと思っている。

心さんとの話でも、サバイバルできる、毎回サバイバル、って、奇跡かもしれないけど、やっぱり、とらわれだね、という話になり、「もう、それ、終わるから、大丈夫」と言われた。

もう、って、それがいつなのか?は分からないが、暮らしは続く。

図書館から借りた、秋山弁護士ではなく、ある裁判官のブレサリアンの話を少し読んでいるのだが、やっぱり、途中で、調子悪くなる。オレからすると、どっか、自由でない。

秋山弁護士の方が、それは良くも悪くも、スッキリ乗り切っている感じがあるので、ヘンにならずに、読めるのだと思う。なにしろ、序文から、「わたしの言うことを、真に受けないで下さい」とあるから、まず、そこがいい。ブレサリアンがよい、とか、こういう暮らしが楽、とか、正しい、って話ではない。周囲についても、全方位外交というか、たのまれたら、行く、って感じで、えーっ、こんなのにも関わってんの?と思うのもあるが、正しい、とか、間違い、とかいう発想を超えているので、まあ、全方位外交、なのだと思う。あるいは、それもやめてしまう、という選択だって入れて、それで「自由」ということなのだと思う。

いろいろ、いい予感とか、手ごたえはあるのだが、とりあえず、心さんに頼って、「大丈夫」とか、「心配ない」という心さんの言葉の先には、「自由」がある、という風に感じている。

しかし、いい予感、だって、また、その結果、それにとらわれたりする訳で、そこは、主治医の言う通り、「平常心」なのだろう。

心さんは、サバイバルやめても、大丈夫、と言ってくれている。