体育主義には、自尊心は育たない。個人とオリンピックとの絡みとは。 | 巡礼者のブログ

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 体育主義、とか、オリンピックがらみで、書いてしまったが、体育主義といえば、体育会、体育会といえば、いじめと暴力の温床。なのに、どうして、オリンピックだけは、それが「いい」という例外になるんだろう。

 オレが聴いた話でも、某競技の某部員は、いじめの話をしていた。その卒業生が金メダルを取る訳だが、そのいじめの温床で、どれだけの人が、精神的、肉体的な暴力の犠牲になっているのだろう。

 そんな訳で、体育主義、というのは、暴力による支配でもある訳である。それはそうだ。もともと、体育主義、というのは、強い、しかし、徹底的に服従的な兵隊をつくるための在り方である。

 日本では、明治政府になって、軍隊を強化するために入ってきたのが、体育主義であり、その源は、スゥェーデン体操である。

 何が起こるかというと、とにかく、殴る、蹴る、それが軍隊の教育の本質である。暴力による支配である。そういう軍隊の本質からすると、暴力による絶対的な服従が求められ、その被害者である筈の兵隊は、命令どおりに、「敵とみなされた存在に対しては」いくらでも暴力を振るっていい、ということになる。

 そういう実情があるのだから、どこの国の軍隊であれ、いろんなやってはいけないことを、やっている筈である。日本の場合は、「三光」という言葉があった。「テキ」に対しては、何でもやってよい、というのが、三光、という言葉の意味だと、オレは思っている。

 オリンピックと暴力を結びつけるのは、その体育主義の暴力性である。だから、戦争反対と言っている人は、本質的には、オリンピックも否定するべきなのだな。だが、多くの人は、「オリンピック」という言葉の響きに、思考停止に陥るのが実情だと思う。

 そんな訳で、フクシマと、首都圏の汚染のこともあるが、本質的にオレはオリンピックは好きではない。

 先日、オリンピックと没個性の話を途中にしてしまったが、自分のからださんを、もう無理矢理、競技に適応させている、というか、その結果、行き着く先は、没個性、という話である。

 いろんな競技で、テーピングだらけの選手が出てくるが、そこまで、からださん、あるいは、精神さんを痛めつけていいものかどうか。からださん、あるいは、精神さん、というものは、早い話が、神様から授かったものである。それを、まるで私物化して、しかも、自分の言い分ではなく、競技のスタイル、とか、ルールに無理矢理適合させてしまっているのである。いってみれば、自分で自分を虐待している様なものだ。

 そして、たった、コンマ何秒、とか、その差を争い。そのコンマ何秒で、金か、銀か、銅になる、って、どうしてそこまでして「他人に認められたがる」のだろう。

 だから、オレは、基本的に、オリンピックでなくともそうかもしれないが、そういう競技で争っている人たち、というのは、「自尊心が低い」のだと思う。いつも、誰かが認めてあげないと生きていけない、というか、普通に自分が自分であっていい、という精神が欠けていると思う。

 何で、コンマ何秒かの上の自分は最高で、そのコンマ何秒下の自分はダメなのだろうか。オレは、そういう意味で、スポーツというのは、健康な精神を持つ人には少なくとも向かない、と思う。

 オレが観ていて、いちばん辛いのは、新体操とかの女性の競技。もうどう見たって、ガリガリのからださん、というより、「からだは自分に服従すべきもの」みたいな感覚で、多分毎夜、便器抱えてゲロしてるんだろうな、と思うのは辛い。そこまでして認められないといけないのか、という、その欲求の異常さを感じる。

 しかも、新体操でいちばん怖いは、控えているときの様子と、入場してくるときの、あの北朝鮮の軍隊の様な歩き方。そして、演技に入るときの、厚いメイクからのあの痛々しい営業用の笑顔。あれを観ているだけで、オレは辛い。そこまで自分の痛めつけて、それで幸せといえるのかどうか。

 それを続けてたら、感覚は麻痺するだろうし、その苦労の経験から、他人に対しては、より多くを期待する、あるいは命令する様になるだろう。

 それでも、結果が出たら、それで少しは気持ちがおさまるかもしれないが、結果が出なかったら、大方の人は、認めてくれない、というか、そもそも、本人に対して、興味すら持ってくれないのである。

 別に興味を持たれるために、競技をやってる訳じゃない、という人はそれで済むのかもしれないが、そういう人ほど、ひょっとしたら、他人に多くを求める様になるのではないか。

 逆にいうと、そういう苦労がしのばれるから、多くの人は、自分の日常の苦労を選手に投影して、「オリンピックで感動した」ということになるのかもしれないが。

 でも、そういう苦労、って、本当に、「自分を生きていることになるのか?」ということである。

 体育主義とか、体育会に戻る、と、もう服従する相手と、服従させる相手、を見極めて、暴力を振るわれていい方と、暴力を振るっていい方を、立場と顔色で判断してやっている訳だから、そこに、「自分、なんて存在する筈がナイ」のだ。

 あるのは、どうやって生き残っていったらいいか、ということだけで、自分の魂を表現する、などということとは、極めて遠い世界だ。あるのは、上から下へと伸びる座標のなかで、自分が何番目か、に位置づけられている、ということだけだ。

 中井久夫先生の言葉を借りれば、成熟した大人、というものは、自分というものは、ワン・オブ・ゼム、であり、且つ、ユニーク・ワン、である、ということを理解している、あるいは体現している、ということである、という意味のことをおっしゃっている。オレは、その感覚というのは、非常に重要なことだと思う。それが分かっている、ということが、自分だけの地図を描ける、ということなのではないだろうか。

 そういう意味では、オリンピック、というか、体育主義、というのは、いつまでも、自己を成長させない、あるいは、成熟させない在り方なのではないか、と思う。

 時間になってしまったが、没個性、というのは、承認欲求の極まるところにある、のではないか、と思うのである。

 時間にて失礼。