お金のはなし その2 | 巡礼者のブログ

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 前回、お金とは何か、ということを書いてみました。まだ考え足りないことがあるので、続きを書いてみたいと思います。

 お金とは何でしょうか?この問いに答えられる人はどれくらいいるでしょうか。あるいはいろいろな答えもあると思います。

 自分なりの答えはあります。それは、それは、紙で出来た印刷物か、プレスされた金属の固まりである、ということです。

 人をバカにするな、という罵声がありそうですが、かといって、その人は、私の答えを否定できる根拠はありません。なぜなら、それは、お金というものの、端的な一面を語っているからです。

 不思議なことは、そういう姿をしたお金に、多くの人が欲求を感じていることです。つまり、お金に、紙っぺらか、金属の固まりとは別の価値を見いだしている、ということです。

 お金は、食べられるでしょうか。食べるシーンは、チャップリンの映画で見たことはありますが、それは食べるために食べた訳ではありません。中には変わった趣味の人がいて、食べる人もいるかもしれませんが、からださんの足しにはなりません。

 お金で体をきれいにすることもできません。お札でからださんを拭いたら、却って、からださんは汚くなってしまうそうな気がします。新札ならまた違うかもしれませんが、そうしたらインクのにおいになってしまいそうです。

 お金を着ることができるでしょうか。アートとしてはあり得るかもしれませんが、着心地は悪いし、警官に声をかけられるかもしれません。

 お金が住まいになるかというと、これも無理があります。

 そんな訳で、お金そのものは、最低の衣食住にも使えないのです。布団にするにも、無理があります。

 という訳で、お金は、衣食住の足しにはならないのです。

 なぜ、そんなものに別の何かを見いだすのでしょうか。別の何か、というのは、価値、ということです。価値、というか、フェチ、と言ってもいいでしょう。実際、そういう考え方をする学問もあります。心理学や文化人類学や言語哲学などもそうです。

 こういう書き方をしていると、本当に何で、そんなことを考えなければいけないのか、ということになります。

 しかし、そう考えると、楽になる、という感じ方もあると思います。たぶん、もともとの仏教などは、こういう考え方に近いと思います。

 人も焼いてしまえば骨です。どんな美人も、もとをただせば、骨と肉でできた人間の一人であることにはかわりはありません。より正確に言えば、肉と骨でできている、というのも、人間の実感に近い言い方で、もっと突き詰めれば、分子とか、原子とか、素粒子とか、そういう話になります。 

 こう考えていくと、実にみもふたもない話になってしまいます。話もこれで終わりになってしまいます。

 ただ、話を展開するとしたら、お金や人間が何でできているか、というより、突き詰めてしまえば素粒子の様なものに、価値を見いだすという、人間の在り方を考えて行った方が意味があるかもしれません。もちろん、素粒子、という考え方で、お悟りに入ってしまえば、それも結構なことです。

 価値を見いだす、というのはどういうことでしょうか。元をただせば素粒子の様なものであるものに、なぜ価値を見いだすのでしょうか。

 欲望から価値を見いだす、という答えもありそうですが、それではまだ詰めが甘いと思います。必要から価値を見いだす、という考え方もありそうですが、必要なだけで生活している人というのは、まずいません。

 つまり、価値、ということと、欲望や必要がどう関わっているか、ということを考えたいと思います。

 本当は、欲望や必要ということも、考え詰める必要があるのですが、ここでは、お金のはなし、というお題なので、お金に限った話にしたいと思います。 

 問題にしたいのは、お金は、ただの紙っぺらであったり、金属の固まりだったりします。

 何で、そんなもののために、われわれは「支配」されなければならないのでしょうか?

 オレはカネなんかに、支配される覚えはナイ!と仰る方もあると思いますが、多くの日本に住む人は、お金でお米を買ったり、お野菜を買ったりします。これがたいていの日常です。お金がないと、たいていは、お米も、お野菜も手に入りません。なぜでしょうか?

 それは、お米やお野菜を扱っているお店は、ほとんどの場合、店主さんもお客さんも、お金を介してやりとりをしているからです。

 品物があり、お金がある場合は、たいていの場合は、やりとりが成り立つ訳です。 しかし、そうではない場合があります。たとえば、お金を持っていないとき、あるいは、品物がないときです。

 昨年の3.11の大震災などのときには、納豆が買えないので大変苦労をしました。あのとき、ある方から、震災の夜に演奏会に来てくれた、というお礼に、納豆のセットをいただきました。この時の納豆は、今でも忘れられません。

 でも、ここで不思議なことがあります。「なぜ、自分は納豆でなければならなかったのか」という謎です。お豆腐は、普段の安いものは手に入りませんでした。自分は、なぜか、お豆腐を買うのを断念してしまいました。

 理由は二つあります。お豆腐なら、食べなくても我慢できるし、いつもの安いものを買う算段しかしていなかったからです。

 納豆も我慢しましたが、我慢の頂点で、納豆を送られたのです。嬉しかったです。

 つまり、自分は、納豆に特別の好みと愛着と、算段があった訳です。算段以外を考えれば、これは、これは、特別な価値を見いだしている訳ですし、言い換えれば、納豆フェチと言ってよいでしょう。いつもの納豆でなければ許せない訳です。立派なフェチです。

 ここでもいつもの図式が成り立ちます。つまり、納豆は食べられても、お金は食べられない、ということです。しかも、あの納豆でなければダメだ、という意識まである訳です。

 これは一種の強迫観念かもしれません。納豆に縛られているのです。支配されている、中毒だ、という言い方もあるかも知れません。

 ある映画で終戦の日のことを描いた作品がありました。ある小隊が、戦争にも負けたし、偉い人たちは逃げてしまったので、自分たちで、倉庫に残ったタバコを分けて、解散しよう、という場面でした。

 当時は、タバコ一箱が、ダイヤモンドに匹敵する価値があったのです。何とか、それで食いつなごう、という話だったのです。

 これも自分の納豆に対する感性と近いと話だと思います。

 3.11の時というのは、言い換えれば、納豆に特別な価値があった時期ということです。お水や電池もそうです。そのときは、品物がなかったり、値段が高かったりしたのです。貴重品、という言い方もできると思います。

 納豆やお水は食べ物ですし、余震や停電がある、という話があったので、電池も必要だったのかもしれません。

 でも、それは本当なんでしょうか。ここでは、東電のウソとか、ヤラセの問題は置いておきます。

 自分に限っては、別に納豆フェチでなければ、何か別の食べ物を食べれば済んだことです。しかし、納豆を贈られて、感動するほどの自分がいたのです。

 つまり、納豆に欲望があり、お金以上の価値を見いだし、食べたら感動した、というのが自分です。

 しかし、その3.11から物流が回復して、納豆をそこまでの感動で食べることはありません。ただ、空腹のときに食べる納豆は、さすが納豆フェチだけあって、いつもおいしくいただいています。 

 3.11は、いわば、お金より、現物の方が価値がある、ということを思い知らされた時期だったのです。東北では、別の事情もあったと思いますが、都内はそんな感じだったのです。

 中途半端ですが、今宵はここまでにしたく思います。