お金とは、これからどうなるのでしょう。そして、お金とは何者なのでしょうか。
自分はいわゆる貧困層であることもあって、食事も自由ではありません。では、お金がたくさんあったら、何が変わるか、というと、何かとても変なものになりそうで怖いです。
お金を持っている、世界でもごく一部の人は存在する様です。そういう人たちは、リーマン・ショックすら利用して、お金を儲けました。
この有様と、その当事者たちへのインタビューは、インサイド・ジョブ、というドキュメント映画で語られています。あるいは、そのお金を持っている人たちが、物事を正直に言わない人たちであることも、どういう表情で話しているかも、このドキュメント映画からは理解できます。
何も、お金持ちが悪いといっているのではありません。ただし、世界のほんの一部の人々によって、お金や財産というものは取引され、大多数の人々は、搾取されている、あるいは、洗脳されている、と考える方が妥当だと思います。
不思議なことは、以前ヘッジ・ファンド、あるいはハゲタカと呼ばれる人たちや組織が、どうして国家や国連などによって、取り締まりを受けることがないかということです。こうした存在のおかげで、潰れた国もあります。
取り締まりを受けない理由は、幾つか考えられます。ちょっと違う例かも知れませんが、東電や首相官邸に捜査が入った、という話は、いまのところ聞いていません。大嘘つきの東電や政治家や官僚が、逮捕され、牢屋に入れられた、という話はありません。
ヘッジ・ファンドやハゲタカ、というものが、取り締まりを受けないのは、たぶん、同じ理由です。彼らは、権力の側にいるために、取り調べも、取り締まりもされないのです。
自分の関心は、どうしてそのことに対して、普通の人々が声を上げないのか、あるいは、正確な情報はマスコミからは出ないのか、政府は本当のことを言わないのか、ではありません。それは、二次的な現象です。
いちばん気になるのは、そういう構造や関係をつくりだす、お金というのは何者か、ということと、そこまでして、お金や権力に執着する人たちが、どういう意味をもって生きているのか、生活しているのか、ということです。
少し視点を変えますが、お金があれば、あなたは幸せになれるのでしょうか?
あるいは、お金がいくらでも自由な立場だったとして、何がしたいでしょうか?あるいは、それをして、充足できるでしょうか? あるいは、どうしてお金がそんなに自由でない人が、ブランドものを身につけたり、車に乗ったりするのでしょうか。下手をすると、そのブランドものは、ローンやカードで、借金して買われているのかもしれません。
どうして、そんな苦しいことまでして、ブランドものを選ぶのでしょうか。先に結論を言ってしまうと、たぶん、自分自身に価値を見いだしていない人が、ブランドものに走るのでしょう。
ですから、例えば原宿あたりを歩く若い女性が、ブランドものを身につけている、というのは、とても滑稽です。なぜなら、自分に価値がないと思っていて、その価値のない人が、ブランドものを身につけているのは、その人の物腰や姿よりもブランドが目立ってしまい、何だかとてもこちらが見ていて恥ずかしくなります。
では、ブランドが恥ずかしいから、お金を身につけて歩いたら、もう少しマシでしょうか。新手のパフォーマンスにはあるかも知れませんが、普通の人がやったら、様にならないでしょう。レディ・ガガという人がやりそうな気もしますが、法律に触れるかもしれません。お金を身につけることの方が、少なくとも美的には、Louis Vuittonの服なり小物なりを身につけるより、勇気もいりますし、恥ずかしい、という気がします。
という訳で、お金、というものは、恥ずかしいものなのです。なぜ、恥ずかしいのでしょうか。 自分なりの結論としては、お金は、何かのかわりにはなっても、何者にもなれない、ということが、お金の恥ずかしさだと思います。
野球のマウンドで、ダルビッシュが立っていても、それは、彼にしかできない仕事をしている姿があるから、違和感がないのです。
しかし、彼の複数年契約の報酬である93億円がマウンドに立っていても、バッターに球を投げることもできません。では、93億円ではなく、リリーフで、100万ドルが出てきても、やはり球を投げることはできません。
お金というものが、何者にもなれない、というのはそういうことです。
では、そのダルビッシュ投手は、93億円もらって、何をするのでしょうか。93億円、というと、普通の人の生活感にない金額ですから、ダルビッシュ投手は、何かしないと、93億円をもらったピッチャーとしてしか、記憶に残らないことになります。
例えば、東北の震災と原発事件で困っている人のために、日本政府の干渉は受けない、復興財団を作って、そこに有能な人材をお金で雇う、ということになれば、93億円の意味があるかもしれません。
あるいは、難民支援の基金をダルビッシュの名前で設ければ、水や食料や医療に困っている人たちに役に立つかも知れません。
しかし、いまのところ、そうした話は聞いていません。ダルビッシュは、何かしないと、勝てば当たり前、負ければ多くの人から罵倒されるだけの人間で終わってしまいます。
お金がある人は、なぜ、余った分を他の人たちに使わないのでしょうか。ダルビッシュはともかく、それとは比較にならない額の取引をしているウォール街の人たちの多くは、売春と麻薬を日常として生きているのです。そのことは、先ほど挙げた、インサイドジョブ、というドキュメント映画に出てきます。彼らも取り締まりを受けている様ではありません。
そして、ひょっとしたら、ダルビッシュを雇うお金も、インサイドジョブに出てきた様な人たちのやり方と生活から生み出された余ったお金かもしれないのです。
ダルビッシュのかわいそうなところは、ひょっとしたら、そういう仕組みに買われて、更にお金を一部の人間に集めるための仕掛けとして雇われただけなのかもしれない、ということです。
そう考えると、野球という競技は、利用されているだけなのかもしれない、という気がしてきます。そして、実際には、そうなのだと思います。少なくとも、大衆の暴力が、お金を操作している人たちに直接降りかかるのを避けるための装置が野球のなのかもしれません。
こういうお金の流れや、それに関わる人々を見ていくと、やはりお金というものは、恥ずかしいものである、ということになります。
何かをするためには、お金が必要、と思っている自分たちは、実は、そういう風に洗脳されているだけなのかも知れません。
マザー・テレサなど、自分の持ち物などない、という生活をしてきた人です。言い方を変えれば、自分が何かをしたくて始めると、それを助けてくれる人たちが出てくる、というものなのかもしれません。本当はそうなのかもしれないのに、権力はそのことを知られるのを怖れているだけなのかもしれません。
また、お金とは何か、ということについて、続きを書ければと思います。