「のぞみはないが、ひかりあり」と言ったのはどこの誰だかさっぱり思い出せないのですが、よく頭に浮かんでくる言葉の一つです。世間を見渡しても、自殺者は絶えず、政権が変わっても庶民の生活は変わらない。ビジネスと言えば聞こえはよいけど、結局のところ人様の財布からいかに金銭をいただくか無限の思考をはりめぐらせているわけです。消費者もいかに出費を抑えようか有限の思考を凝らして「こっちのミルクが安い」。ちょっと気が抜けるとつい必要でもないイヤリングを買ってしまう。自分の感覚をコントロールしないと後で困るのは本人です。人には誰もが二つの目がありまして、アクション映画を見たい、きれいなビーチで心地よい波を眺めたいといろいろな要求が起こるわけですが、それをもし荘厳なバラジーを拝観したいとか神様を感じられるならそれは徳の様式を越えることができます。二つの耳でエルトンジョンの音楽を聴きたい、松田聖子のバラードを聴きたいという要求を、シェルターを聴いてみよう、カルナムリタのキルタンを聴こうという方向に向けるとそれもまた激情の様式を越えることが出来る。何ヶ月前か何年前か全然わからないまま殺されミンチされたソーセージをほおばるより、自分で小麦粉からグルテンを取り出してモドキ肉をつくれば、それは無知(激情もないと無理かな)の様式を越えられる。

問題はそういうことを教えてくれる人があまりにも少なく、興味を持つ人もあまりいない。偽善と闘争の時代、まだまだ始まったばかりなのに、これからもっと酷くなることでしょう。誰も地球の回転を止められないように、時代のムードは変えられません。そういう中でたった一つのヒカリが、マハーマントラを唱えること。それがチャイタンニャマハープラブの教えです。