太平洋戦争時代の沖縄戦。
昭和20年、1945年当時の話です。
昭和20年1月から小笠原諸島への
連合軍の侵攻が始まりました。
軍令部は小笠原諸島を見捨てて、
次の連合軍の攻略地の選定に大わらわでした。
台湾か沖縄か。
軍令部はフィリピンが危機的状況にあることも考慮して
次の侵攻を台湾とみなして、
沖縄駐留の第9師団を台湾に転出させます。
転出した部隊の代替として、姫路の第84師団が
沖縄に送られることとなりますが、
既に米軍潜水艦の跳梁激しく、
沖縄への輸送は困難な状況になっていました。
その結果、沖縄第32軍は兵力不足から、
波打ち際での戦闘を避け、沖縄内地へ米軍を引き込んで
局地戦を展開せざるをえなくなりました。
沖縄は、米軍機の空襲が日増しに激しくなり、
爆撃目標がなくなってしまうほどの損害を受けます。
その結果、爆弾の投下目標が無く戻らざるを得ない爆撃機が、
フィリピンに帰還途中にある台湾に、
余った爆弾をすべて投下していきました。
また、爆撃機を護衛していた米軍の戦闘機も、
沖縄の日本の戦闘機は壊滅していたため戦闘の機会がなく、
台湾上空の微弱な対空砲火では戦闘機の護衛の必要もないので、
憂さ晴らしに、台湾の上空を低空飛行して、
地上に動くものを見つけたら、即座に機銃掃射をしたそうです。
うちの父も、米軍のP-51の機銃掃射で、
左肩と左太ももに貫通銃創を負いました。
台湾でも連日の空襲と、無差別な機銃掃射があったのです。
その被害はほとんど伝えられていないように思えます。
しかし、「被害のない戦争はない」
武力を行使し、戦闘を行えば、必ず人的被害が出ます。
それが戦争です。
軍事力の強化の先には、必ず武力行使が現実のものとなります。
それが歴史の教えるところです。
過去の歴史に学ばず、今の時代とは違うとの考えは、
自らの命を危険にさらすことになると、
今、声を大にして叫びます!!