今日は子どもたちが家でオンライン授業と休校(分散登校だから一日おきに休校)だということもあり、午前の仕事だけして午後から帰宅しました。自分の体調がよくないことも理由です。

子宮筋腫がありまして、4~5センチに育っていて、粘膜下筋腫という出血量の多いタイプなので、月経の出血が多すぎて貧血のためのお休みです。生理休暇の制度を使えるかわからず、面倒なので有休半日にして帰ってきました。

家に帰ってからも食事を作ったり、育児をしたりで、結局休めるわけではないのですが、出血の対応とフラフラしてぼーっとするため家のほうが安全ではありますね。。

 

先週のエルネックの研修会(エンド・オブ・ライフケア)の影響がまだありまして、12時間も人生の最期について語ったりするので、なかなか実は頭から抜けなくなるのですが、「死」についてふと思うことがありました。

 

研修会では、「死は誰のものか」のような講義がありまして、「子どもの死=未来の死」「親の死=過去の死」「患者さんの死は2.5人称の死」という講師の話がありました(この研修会は私はもう4~5回くらいか、もっと受けているのですが)。毎回ここは、納得というか考えさせられます。

この1年くらい患者さんや子どもを亡くした方のブログを読んだりしていまして、お子さんの闘病や死はお母さんにとってすごく重いというか、時が止まってしまうのですよね。講義では、「死は時間をとどまらせる」とか「時間をその時に引き戻す」という話があり(これも毎回定番のお話)、確かにそうだなと思います。

そして、私はまだ幸いに両親が健在なのですが、今から考えておく必要はあると常々思っているのが、「親の死」で、親が死んだ時、自分の過去を知る人を失うので、過去を喪失したような気持になる(という毎回の定番)ことです。

私は自分の両親をとても大事に思っているし、大事に育ててもらったと感じているので、両親の死はまったく考えたくないことではあるのですが、それでもいつか来るのだと思うとつらいなと思います。父も75歳になり、病気もいろいろありまして危険ですね。。母も元気ですが、コロナ禍でもあるので、お墓の話や貯金とかの話なども聞いたりしています。

 

研修会で、在宅での看取りやエンゼルケア(死後の処置)の講義があり、実際の写真もあったのですが、看護師にとって患者さんの死は「2.5人称の死」と言いまして、家族でも知人でもないが、親しい人としての死になる、ということです。参加の方には、ご遺体の写真は絶対に見たくない、看取りはしたくない、という方もいまして、看護職であっても死を特別視される方もいるのだなと改めて思いました。

 

私は今年、夫のおばさんが銭湯で心肺停止で倒れてICUに搬送されて亡くなったのですが、独り身の方だったので、夫のいとこが最期の手続きなどをすべて担当して、私たちには亡くなった際に第一報が入って経緯の説明があり、もう明日火葬ですという感じの急な連絡だったので、お顔を見に葬儀場の安置室へお花をもって行きました。急な入院ですぐに亡くなった様子でしたが、お顔はエンゼルメイクがなされて、穏やかでしたが、服が病衣だったのが私には残念というか、身寄りがないのでしょうがなかったのかもしれないのですが、せめて新しい浴衣(業者の方にいうとその場で買えるので)を着せてほしかったなと思いました。

ご遺体の安置所は、20畳かもっとありそうな和室の広間にお布団に普通に寝ていたので、びっくりしましたが(棺に入ったりしてなかったので)、実家の母に言ったら、母は知り合いの方がやはり急に亡くなって安置室にあるというので数人でお線香をあげにいったらコンクリの無機質な部屋に棺がポツンとあって、あんなのはちょっと・・と思った、と話していました。母のほうは、亡くなった方は医師で死んだらお金をかけなくていいという方ではあったそうですが、それにしても家族もいるはずなのに、ご遺体だけ置かれていて温かみがなかった、ということでした。

 

死にはいろんな価値観もあったり、自分の思うようにならない部分もあるので気になりますが、私はとりあえず浴衣でいいので新しいものを着せてほしいことと、お墓は実家のほうに入れてほしい気がします(夫のほうの墓に入っても嫌だな~と思ってます)。

夫より長生きして、子どもに頼んで看取ってもらうしか希望を叶える手段がなさそうだな~と密かに思う今日この頃です。