先週の金曜日に森田先生の講演会に行ったのですが以下、そのメモ。
(わたしの意訳が多分に入っています。そしてメモが正確ではないところがあるかもですが)
鹿児島以外の方で、それ誰??の方のために下にリンクを貼っておきますと。
夕張に育ててもらったコミュニティードクター/医療経済ジャーナリスト/
医療を市民にひらくことで医療から暮らしを守る医師。元夕張市立診療所院長、の森田洋之先生。
今は鹿児島の川辺というところにて開業されています。
では早速。メモ。
⚫︎病人はベッドの数で作られる
(と、いきなり意訳。森田先生はこういう言い方はしていないですが)
ベッドを埋めないといけないから病人が増える。
⚫︎ベッド数が多い県は病人も多い。
(そして我が鹿児島県は全国二番目のベッドの多さ)
⚫︎西欧諸国は病床を減らし、なおかつ平均寿命は伸ばしている。
⚫︎ヨーロッパは医療がビジネス化されていない。
医療は「公的機関」。医療従事者は公務員。だから「患者を減らす」ことに注力できる。
⚫︎なぜ日本はベッド数を増やしている?
日本と韓国は医療がビジネス化されている。
従ってたくさん患者がいて、なおかつ「満床に」しないと経営が成り立たない。
日本の医療は堂々と言っている。「満床をめざしましょう」。
⚫︎病床数世界一の日本。5倍持っている(どこの5倍だったっけ)
⚫︎今の日本の7割は高齢者医療。
⚫︎CTもイギリスの10倍持っている日本。検査すればしただけ儲かる。
⚫︎医療は「売りたい放題」。
ラーメン1杯800円として、
たくさん売りたくてもそんなに頻繁に来てくれるわけじゃない。
でも、医療だとめちゃくちゃ売ることができる。
【理由1】
「高齢者はラーメン1杯80円で食べられますよ、という仕組み」
(皆保険によるコスト意識の麻痺)
【理由2】
「情報と権力の非対称性」
あなたは週2回ラーメンを食べに来なさいと医者は言える仕事。
知識、情報を医者が持ち、指示できる。医者は売りたい放題。
普通に売れる量の10倍を仕入れたとして、ラーメンだと売り捌けない。
でも、CTなら売れる。
⚫︎もっと医者は自制しなくてはならない。
医者の数は少ないのに、CTもMRIも山ほど持っている日本のお医者さん。
⚫︎医者は情報提供量を減らすべき。
お客に1日3杯もラーメンを提供して、それで忙しくなって
「人員不足だ」と言っている医療業界。
提供を「適正な量」に減らすべき。
⚫︎適正な医療とは何か?
日本の医者は「過剰医療はない」と思っている。
これが普通、適正、と思っている。
⚫︎病院は無くなっても健康に関係ないんだな(実証)
夕張は、医療費はめちゃくちゃ下がって、
死亡率は変わらなかった。救急車の出動率は半分。
⚫︎夕張のお年寄りは幸福度も上がったはず。家にいられるから。
人間の「生活」として、病院は質が低い。自由がない。
⚫︎医者の出番をどんどん少なくすることが医者のミッション。
(上質の)介護と看取りがあれば、
医療はほとんどいらないことがわかる。
適正な医療の量は下がる。ほとんど出番はない。
⚫︎健康な生活って何?
身体的・精神的・社会的に良好な状態
「社会」が残っていれば、高齢者は医療に依存しない。
⚫︎(事例)たま子さん。
過剰な医療で生活を奪われ「社会」も奪われていた。
良かれと思って、病院に囲う〜これが過剰医療。
本来のたま子さんのポテンシャルを医療が奪った。
(退院したら身体の機能も心の状態もずっと元気になったたま子さん)
⚫︎療養病院の大部屋。
医療的に管理されながら生活している。
(ベッドに括り付けられているお年寄りたちの写真)
⚫︎高齢者の「生活」を奪わないことはものすごく大切。
でも、医療は良かれと思いつつ病院で管でつなぐ。
そしてベッドは埋まっていく。
⚫︎「病院で、管で繋いでいたら、もっと長生きできたんじゃないか?」
それは、医療側の理屈。
それを決めるのはその人生の当事者(高齢者)。
援助はするが、決定権はない。それが医療。
けれど「決定権あり」と思っている医療従事者が多すぎる。
⚫︎健康な生活を医者は目指さなくてはならない。
医者はそれを阻害しかしていない。
精神的にも社会的にも幸せじゃないと幸せじゃない。
「生活」をお年寄りから奪っては、絶対にいけない。
⚫︎寄り添う介護。これが「適切な医療」(森田先生がたどり着いた)
医師の出番はほとんどない。
医療は少ないけどみんな健康。
生活を支える介護力と、でしゃばらない医療が必要。
⚫︎医者は、医療という「刀」はいつも磨いておく必要がある。
そして、それを振り回すのは戦場である「病院」。
街中で(生活をする場の中で)戦場と同じ意識で
刀を振り回してはいけない。
* * * * *
大まか、このような感じのお話でした。
他には皆さんやはり興味のあるワクチンの話など。
わたしはFacebookでチラと見て、
「会場も近いし」と氣軽な気持ちで聞きに行ったのですが、
遠方から(関東や、九州内)からいらしている方々もいて、
本質(医療のあり方とは、真の健康とは)を求める人たちの
「切なる思い」
のエネルギーの充満を実感した時間でした。
遠方から来ていた看護師さんになってまだ数年、
という若い人たちの言葉が印象的で。
「医療に依存すると楽。
管を入れると最悪生きてはいける。
けど、人間として扱えているか?
寄り添えているか?
と思う。
病院の中でできることをしたいけど。
限界を自分で決めてはいないけれど。
限りがある。
人として寄り添っていけるよう勉強もしているけれど、
どうしたら思いだけでなく、行動できるのか?」
感極まって、
涙を流しながらの言葉でした。
さて。
「こんなもんだ」
「これが普通なんだ」
「みんなそうしているし」
となんとなく、ただ思い込んでいたことが、実は全くもってそうではなく。
「健康」ってなんだろう。
老いてゆくってどういうことなのか?
自分の言葉としても、形にしてみたいことは、
胸の中にあるのですが、
まだぐるぐる混沌としているところです。
ただ、お年寄りがみんな、
生き生きと笑いながら毎日ちゃんと
「一番居たいところ」で暮らしを営んで、
その延長に、立木が静かに枯れゆくような「自然な」死が、
(生から次の状態への軽やかなる移行のように)訪れる。
それが「普通」になったとしたら、
それはお年寄りだけでなく、
もう、全員にとって「いい世の中」になっているに違いない、
ということはしみじみと思っているところです。