最近読んだ書籍、『美しい「形」の日本』には、縄文時代の土器が紹介されていた。何の変哲もない土器が多い中、取手に火の形状を用いた土器が見つかったそうだ。
おそらくこれが、我が先祖がはじめて“アート”を施した物ではないだろうか。


アートとは何か。このような、定義の難しい言葉は、起源をさかのぼり考えるのも一つの手だ。
仮に、火の形状をした縄文土器が、人類はじめて(またははじめてに近い)のアートであれば、先祖は何を想い作ったのだろう。書籍には、「火への信仰を表していると見ることができる」と記してあった。
そういえばルネッサンス時代の美術品なども、必ずと言っていいほど宗教を反映している。

火にしても宗教にしても、人々はその神秘的な〝何か“に魅せられたのだろう。
それを形にして表現しようとした。今は宗教色を取り入れなくてもアートとして扱われる芸術品や美術品は当たり前のようにあるが、何かを表現しようとしているのは共通している。

おそらく私が思うにアートとは、『自分が魅せられた“何か”を自分なりに表現したもの』ではないだろうか。

私は趣味で写真を撮る。撮影する被写体は、「綺麗だな、美しいな」と思ったものであり、どのように撮ったらそれがより美しく見えるか、引き立つのかを考えてシャッターを切る。
こうして撮られた一枚は、『自分が魅せられた“何か”を自分なりに表現したもの(写真)』と言えるだろう。
$広島市で活躍するコンサルタントの日記



❙アートは作品? 製品?

北野武は絵画を描くが、売る気はないらしい。
純粋にアートを楽しみたいのであれば、私もそれがいいと思う。

商業的にアートを創作するのであれば、その作品は〝製品”という色合いを持つようになる。
アートだけにこだわりたいのであれば、売れるか売れないかという枠を外して、はじめから売らないつもりで創作したほうがいいだろう。
生粋なアーティストでいたければ、作品は一切売らず、アートで生計を立てるなど考えないほうがいい。
生粋のアーティストを目指して無収入で作品を作るのか、商業アーティストを目指して収益を得ながら作品という名の製品を作るのか、アーティストはいずれかを決めなければならない。

『好きなように創作したい。なおかつ作品は売れるようになりたい』などという甘い考えは捨てたほうがいい。
売れるか売れないかを一切考えずに創作した作品が売れていくなどという僥倖は、ほんの一つまみのアーティストにしか与えられないのだから。