先日、NHKオンデマンドで千利休に関する番組を2本続けて見た。
2本の番組を見ていて気づいたことがある。それは、同じNHKの番組にも関わらず、歴史の認識が違っていたことだ。

食い違っている点は、秀吉の名を天下に轟かせるために行われたといわれる、2つの大イベント。
一つは、金一色で覆われた豪華絢爛な茶室を作り催した茶会。もう一つは、身分関係なく参加できる大規模な茶会(北野大茶湯)である。

「BS歴史館『千利休 天下統一の陰で』」では、イベントは利休が創案したと伝え、利休は優れた商人であり茶人でもあったと評していた。

しかし、「その時歴史が動いた『戦国の茶人 秀吉と闘う ~千利休切腹の悲劇~』」では、違っていた。
金一色の茶室は秀吉の案であり、また、北野大茶湯も突如、秀吉が中止し、茶会の準備をした利休と堺の商人の面目を潰したと伝えていた。

私は、後者の番組の歴史認識に共感した。


その理由は、利休が切腹させられるまでのエピソードにある。
利休は黄金の茶室が完成した後に、1.5畳の茶室を作ろうとした。黄金の茶室とは対照的な、質素で古色に包まれた静寂な茶室だ。秀吉はそれを快く思わなかったようで、何度も作り直させたようだ。

また秀吉は、誰もが平等を基としてきた茶の湯を権威づけし、様々な決まり事を定めた。自分が特別に許可した者しか習うことができない秘伝を設け、それを教えることができるのは、秀吉と千利休のみとしたのだ。
利休はこれに反発した。教えを乞いに自分の元へ来た者に、「秀吉様の前では申し上げられない極意があります。茶の湯の道にとりたてて習わなくてはいけない作法などありません。各人の創意工夫で行うことが極意なのです」と伝えたのだ。

秀吉と利休の関係は次第にひびが入る。
その後秀吉は、利休に堺で蟄居するよう命じる。

理由は二つ。
一つは、大徳寺山門の二階に立てた利休の木造が、秀吉が通るかもしれない門の上に置くのは不敬罪に当たるからとのこと。もう一つは、秀吉の命で利休は茶道具を鑑定していたのだが、その立場を利用し、不当な高値で売買していたとして、売僧の行為に当たるとからとのこと。もう、ほとんど言いがかりである。

このままだと切腹の命が下る。
利休を慕う者の中には、秀吉に謝るよう助言する者もいた。しかし、利休は謝らなかった。
そしてついに、切腹が命じられる。

切腹のエピソードがまたすごい。
秀吉の命により、利休に切腹を伝えに来た3人の使者に対し、「茶の湯の支度ができております」と伝え、茶を振る舞った。その後、切腹する。

利休はなぜ秀吉に謝らなかったのか。
謝るということは、秀吉が定める茶の湯のあり方を認め、受け入れることを意味する。それはつまり、自分が確立してきたお茶の道を捨てることになる。
利休は自分の命ではなく、茶の湯の道を守ったのである。現代に茶道があるのも、利休が命がけで守ったからに他ならない。
私は利休の死に様に美学を感じた。

さて、話を戻そう。
なぜ私が後者の番組の歴史認識に共感するのか。
それは、木と土で作った2畳の茶室の空間でわび・さびを重んじ、茶の湯では誰もが平等という〝道“を、命を捨ててまで守った利休が、黄金の茶室などという品のないものを企画するとは到底思えないのだ。それができるような人間であれば、秀吉に頭を下げ命乞いをしているはずだ。

歴史の専門家ではないので真実は分からないが、(同じNHKの番組でも見解が違うし)私は、利休の死に様を知って、利休が2大イベントを率先して創案したとは思えなかったのだ。