前々から気になっていた言葉がある。
その言葉は、「しない善より、する偽善」だ。
善より偽善が勝る? [ 善 < 偽善 ] なんてことがあるのだろうか?
今回、このことについてちょっと真剣に考えてみた。

※注 「しない善=善をしない」ではない。「その人に手を差し伸べないことが、その人のためになる=しない善」だ。

 

 

まずは、言葉の意味を調べてみる

まず、善と偽善とは、どうちがうのかを調べてみた。
※以下「goo辞典」より)

 

 

善・・・・行いや性質などが好ましい。よい。よいこと。
偽善・・・うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。


 

私なりの解釈だと、善とは、相手のことを想い、相手のためになる行いをすること。
偽善とは、相手のことを想わずにする行為。または、善に見せかけて相手のためにならない行為をすること。

 

ここで言う〝しない善“とは、分かりやすくたとえれば、「親切という名のおせっかい そっとしておく思いやり」(みつお) ということだろう。

 

もう一つ例を上げよう。
何年か前に「ゲゲゲの女房」という漫画家水木しげるの妻を主役にした朝ドラが流行った。
ドラマのある回で、町内の青年がある既婚女性に恋をし、失恋する。それを知った漫画家の水木しげるの妻は、その青年を元気づけようとするが、夫の水木しげるは、「そっとしておきなさい」と忠告する。失恋時は、そっとしておくほうが、その人のためだと察しての言葉だ。
(たとえがニッチすぎて、伝わらなかった人は、スマン。)

 

 

 


❙善、偽善を分けるマトリクス

 

 

 

善と偽善を分かりやすくするために、マトリクス表にしてみた。

 


広島市で活躍するコンサルタントの日記

 

 

こうすると、善は1つに対して、偽善は3種類あることが分かる。
善は見ての通り、〝相手のことを想い、相手のためになる行い“を指す。

 

 

そして偽善だが、

 

偽善1(表の左上)は、〝自分の利益、または自己満足でする、相手のためになる行い“を指す。
偽善2(表の右下)は、〝相手のためを想い、した行いが、結果的に相手のためにならない“を指す。
偽善3(表の左下)は、〝一見相手のためになるように思えるが、結果的に相手のためにもならず、自分の利益、自己満足のためにする行い“を指す。

 

私見だが、一般的に「偽善」と言われるのは、偽善1(自己満足でする、相手のためになる行い)に用いられている。
偽善2(相手のためを想い、した行いが、結果的に相手のためにならない)に対して、「偽善」という言葉はあまり用いられていない。
どうやら、偽善かどうかを判断する際は、その人のためになったかどうかより、行いをするに至った動機が評価されるようだ。

 

 


❙〝する善”と〝しない偽善“

 

そもそも、〝しない善“があるのであれば、〝する善”もある。
〝する善“は、たくさんの例が思いつく。
お年寄りがいたら席を譲る、重い荷物を持ってあげる、道に困っている人を案内してあげる、など。例に困らない。当然その行為は、自己満足ではなく、他人のためを心から思ってする行いでなければ「善」とは呼べない(自己満足のためなら、偽善となる)。

 

色々考えてみた結果、〝する偽善“は〝する善”を上回る場合があるということだ。

 

 

たとえば、ボランティアでお年寄りを介護していたとする。その場合は、自分の金銭と時間が許す範囲での行いしかできない。もしこれが、一人介護するごとに、地域からお金が下りるとなれば、より多くの人を介護しようとするだろう。そうなれば、ボランティアという善でしていた行いより、自分のためにする偽善の行いのほうが、結果的に多くのお年寄りを助けることになる。

 

 

人間は、どうしても他人に割くエネルギーより、自分のために割くエネルギーのほうが大きい。それは当然だ。そのため、人のためにしていた行いが、自分のためにもなるのであれば、動機付けがより強くなる。結果として、行動が促進される。

 

 

これならば、WIN-WINの関係なので、より力が入り、全てとは言わないが〝する善“を上回る場合があるだろう。
そういう意味では、ビジネスも〝する偽善”に当てはまるだろう。(「社会のため、地域のため」と言いながら、利益を得るので)。

 

 

 

 

 

❙〝する偽善“は、〝しない善”を超えられるのか

 

さて、ここからが本題の、〝しない善“についてだ。
何もしないことが〝善“になる場合には、どんなことがあるだろうか。

 

〝しない善“の例を上げれば、
・失恋の時、そっとしておく
・友人のパートナーが過去にしていた浮気をばらさない
・子どもや障害者が自力で何かを達成しようとするときに見守る

 

などがある。

 

さぁ、これらの〝しない善“を上回る〝する偽善“とは何だろう。
正直、私自身、色々考えたのだが、〝しない善“を上回る〝する偽善”が思いつかなかった。

 

 

その大きな理由の一つに、“しない善”を選ぶ人は、必ず「する善」について一度は頭を巡らせているはず。それでもなお、“しない善”を選ぶわけだ。つまり、何か“する”ことにで相手のためになるかどうかは、一度、頭で考えて、それでも“何もしない”という判断をする。

しない善は、一番頭を使って出す結論である。誰だって何か手を出すほうが容易であるし、非難も受けない。

 

それに、たとえ、何か〝する偽善“を思いついたとしても、それが本当に〝しない善“を上回るのか私自身、自信が持てない。裏目に出る可能性がおおいにある。

 


つまり、今現在の私の結論は、[ しない善 > 偽善1 > する善 ](偽善1がする善を超えるのは、時と場合による)
ということになる。

 

先ほど、例でお話したとおり、〝する偽善“が〝する善”を上回ることはある。しかし、偽善2、偽善3が、〝する善“を上回ることはない。その他の偽善は、どう考えても、〝しない善”、〝する善“、以下にしかならない。

 

 

あなたも一度、善と偽善について考えてみてはどうだろうか?

 

 

それと、〝しない善“を上回る〝する偽善”があれば、ぜひ、教えてほしい。
おそらく、理論整然と答えられる人は、そういないだろう。

 

 

最後に、私の意見だが、
善を行う人の気持ちは、別にどうでもいいと思う。
善と偽善1の差は、気持ちの問題だ。相手を想ってのことなのか、それとも、自分のためなのか。どちらかであっても、一番大切なのは、相手のためになるという結果だ。しかし、どんなに相手を想ってした行いでも、それが相手を苦しめてしまえば意味がない。その気持ちは当然ありがたいのだが。

 

相手がそれで幸せになれば、善だろうが偽善だろうが、構わない。無論、相手を想い、そっと善を行うのが粋ではある。
それが、今までの解を通じた私の答である。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私、深井貴明へのfacebook友達申請は、こちら。

 

私が運営する「コピーライティング専門サイト」は、こちら。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・