最近友人からこんな話を聞かされた。
「いまだにネットに対して偏見を持っている人がいる。特に年齢層が上がれば上がるほど、、、」と。
確かにいる。でも、何で偏見を持つのだろう。そのことを自分なりに考えてみた。

インターネットが誕生したのが1990年頃。
ネットの誕生により、新しいコミュニケーションの形が生まれた。
一言で言えば、「匿名で顔も知られることなく、誰もが遠くの見ず知らずの人と関わり合える」。
匿名でのやり取りで目につくのは、誹謗中傷などの書きこみだ。
掲示板では、日常生活では言わないだろう言葉が躍る。
もちろんこれはネットの側面にすぎないが、人は、匿名かつ知らない人とでのやり取りになると、黒い部分が露出するというのが分かる。
このような条件下でのコミュニケーションは、今まで人類は体験したことがなかった。歴史上初めてのコミュニケーション形態なのだ。
年齢層が上がるにつれて、ネットに対して偏見を持つ人がいる、という話だったが、それは仕方ないことだと思う。
人生40年以上、移動範囲内の知り合いとだけコミュニケーションをとっていた人にしてみたら、ネットでのやり取りは“特殊”に見えるのだろう。
「ネットはなんだか怖い、恐ろしいものだ」。そう感じるのも無理はない。
私なりの結論としては、年齢層が高いほどネットに対する偏見があるのは、自然なことであるし、当然の反応なのだ。

ここで、少し話を変えたい。
Facebookについてである。
このツールは実名かつ顔写真付きが原則だ。
今までのネット上のコミュニケーションとは条件が違う。
リアルコミュニケーションとネットコミュニケーションの間にあるような気がする。当然FBもネットを介しているので、「いやいや、FBはネットコミュニケーションだろ」というツッコミはあるだろう。とりあえず“従来”と付け加えておこう。

私は、FBを一種の村社会だと考えている。
リアルの村社会は、狭い範囲での集まりだ。
村社会は、コミュニティーが濃く、情報が瞬く間に伝達される。
たとえば「あの家の息子が、昨日、こんな悪さをしたんですって、、、」。そんな情報が一気に拡散し、村中に知れ渡る。

FBもこれに似ている。
FBは、まず知人から繋がり、その周りにいる人達と繋がる。多くの人はこの道筋を辿るはずだ。リアルな村社会と同様に、移動範囲で会えるFB友達が多い。
また、情報の拡散の仕方も村社会と同じだ。
FBではよく「今来ているお店が凄く雰囲気が良い」や「今、○○さんと一緒です(タグ付け)」というシェアを目にする。瞬く間に、FB友達に何をしているのか、何をしていたのかが知れ渡る。
また、FB友達の勝手な写真へのタグ付けで、どこにいたか分かってしまう。
情報が知れ渡る層や拡散のされる様子が、FBはまるで村社会のように私は感じるのだ。

これはある意味良いことだ。
村社会では、“村人の目”というものがあり、それがある種のブレーキになる。つまり、悪さができない。
匿名のネット社会では、誹謗中傷が目立っていたが、FBではそのような現象はほとんど目にすることはない。
これは先ほど言った“村人の目”というブレーキが働いている影響もあるだろうし、そもそも村社会が嫌な人は、FB自体に登録をしないからだ。

さて、話をまとめよう。
匿名で顔も知られないコミュニケーションは、人間の黒い部分を浮き彫りにしていた。そもそも、匿名で顔も知られずにコミュニケーションができること自体、歴史的に見て“特殊”だったのだ。
FBは、実名、顔写真付きを原則にしているためか、FB上では黒い部分が出てこない。実名、顔写真が当たり前になれば、ネット上の治安もだいぶ良くなんじゃないかと思われる。
“顔と名前が分かる人とだけ関わる”私たちはFBをきっかけに、本来のコミュニケーションのあり方に戻りつつあるのかもしれない。