皆の者、息災かな。
加藤清正である。


今宵は待ちに待った満月。
皆がおる辺りからはどう見えておるかな。
此の名古屋は生憎の曇り。
雨はやめども雲晴れず。
生憎の空模様ではあるが、これ程明るく雲の姿形がわかる夜も珍しい。
此れは此れで良き夜となりそうじゃ。



さあ、此度は久方ぶりに百人一首の紹介をして参ろうか。




「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む
世をうぢ山と 人はいふなり」
(わがいおは みやこのたつみ しかぞすむ
よをうじやまと ひとはいうなり)



六歌仙の一人、喜撰法師の手による歌。
今の言葉に訳すると以下のようになろうかな。

「私の家は京の都の東南にあたる宇治にあり、静かに気楽に暮らしている。
不思議なことに、それを世間の人は世を憂いて逃れ住んでいるといっているようだ。」



今も昔も世の人というのは、ちいとばかし変わった暮らしをしておるものを口さがなく言うものじゃ。
そういった者たちの様子に苦笑する喜撰法師の様子と人柄が浮かび上がってくる、そんな和歌じゃな。
なんと言われようと己は己。
現代の価値観にもよう合うた歌と観る事も出来ようか。



「たつみ」は十二支の「辰」と「巳」であり、東南の方角を指す言葉。
「しかぞ住む」は「このように(静かに)」という意と「鹿」を合わせた掛け言葉。
田舎で静かに暮らす様子が浮かんでくる。

同様に「うぢ」も地名の「宇治」と「憂し」の意味を持つ掛け言葉じゃ。
此処では、田舎のわび住まいを印象づける言葉となっておるな。



当然ながら、和歌の技法とは技法があっての和歌ではない。
三十一文字になるたけ多くの言葉を詰め、受け手の想像力をかき立てるために使うてくにっくなるものなのじゃ。
いわゆるだぶるみーにんぐ。
なるほどな、そう来たかと軽い気持ちで楽しんで欲しい次第。



此度の喜撰法師同様、「方丈記」で知られる鴨長明も類似した価値観を作の中で綴っておる。
共通するは隠遁者独自の信念と精神性、そして俯瞰力。
何となく生きづらき者や社会組織に疑問を抱いておる者は手に取ってみると良いかもしれんな。



加藤清正