皆の者、息災か。
加藤清正である。


此度は豊臣秀吉様、徳川家康様、踊舞、なつと共に城に出陣して参った。
久方ぶりの曇天であったが、雨に降られもせずめでたい限り。
登城してくれた皆々、ありがとさんじゃった。


その後は名古屋栄三越にて、金虎酒造殿の援軍。我らの魂の酒をより多くの者に広めて参った。
三越殿にて試食試飲をする事ができるは十四日まで。
皆々、時が有らば是非足を運んでちょうよ。
儂も時が許す限り戦の合間に援軍致す。





さて、一月十七日の清正茶論まであと一週間を切った。
ここいらで百人一首、四つ目の和歌を紹介して参ろう。


田子の浦に 打出でてみれば 白妙の
ふじの高嶺に 雪は降りつつ」
(たごのうらに うちいでてみれば しろたへの
ふじのたかねに ゆきはふりつつ)

奈良時代の宮廷歌人、山部赤人の手による歌。
現代語訳するとそうじゃな、
「田子の浦に出てみると、遠くに白い衣のような雪を被った富士山が見える。その高嶺に、今も雪は降り続いている。」
となろうかの。


この和歌は、読み手の想像力が試される歌といえるかもしれん。
実は、この和歌の視点は二つある。
一つ目は、海辺から遠く冠雪の富士を眺める視点。
もう一つは、そこから雪の降る頂上を思い描き、これからの冬のおとないを感じている視点。
下界から天界を想像しているかのような立場じゃな。

儂も冬の凛とした空気、降り積もる雪の美しさには何とも言えぬ風情を感じるが故、この和歌にはいたく心を揺さぶられる。


しかしながら実はこの歌。
先日紹介した推古天皇の春の白妙の歌同様、万葉集から新古今集に再録される際改変されたものなんじゃな。
万葉集のものは
田子の浦ゆ 打出でてみれば 真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りける」


即ち、「田子の浦を通って遠くを見れば、真っ白な富士に雪が降っているなあ」という歌意。
より素朴で、見たままの情景を詠んだ歌である事がわかるであろう。
新古今集を編纂した藤原定家卿は、幽玄さを好んだ御仁。
雄大な万葉和歌から、より優美な平安和歌への変遷を感じさせる好材料と言う事も出来ような。
そしてその中で、密かに「田子の浦」の場所が変わっているのがわかるかの。

万葉集は「田子の浦 打出てみれば」。
新古今集は「田子の浦 打出てみれば」。
上のものは田子の浦を通ってたどり着いた場所から見た景色という意。
下のものは田子の浦から見た景色というわけじゃ。

実は、万葉の過去に田子の浦と呼ばれとった場所からは富士の山を見る事は出来なかったんじゃな。
しかしこのように和歌が改変され、田子の浦から富士の山を見られなければおかしいという風潮になってしまった。
故に、「田子の浦」という場所の名前も現在の場所に移ってしまったんじゃ。
和歌が地名に与える影響も計り知れないものなんじゃな。

因みに余談であるが、平家物語に出てくる「鵯越の逆落とし」も似たような変遷を辿り、現在では「鵯越」がどこにあたるか正確には分からなくなってしまった。
文学的表現を優先するあまり、実際の地理があやふやになってしまっている現状もまたあるという事じゃ。
聖地巡礼をする際は、そのような事もまた鑑みた上でしなければならんじゃろうな。


さて、此度の和歌談義はここまで。
一月十七日の清正茶論でも古典文学以外に、時間が許せばいくつか和歌を取り上げ話して参りたいと思う。
清正茶論の主題は「わかりやすい」、「たのしい」、「やさしい」じゃ!
古典とは、乱暴に言って仕舞えばただ昔の言葉で書かれた小説というだけじゃ。
内容は、意外と現代に生きる主らにも共感できる面白いものなんじゃよということが伝われば嬉しい限り。


腹を抱えて笑える話も幾つかあるでな、古典に苦手意識を持っておる者たちこそ是非足を運んで欲しい。
儂がその苦手意識を払拭してくれようぞ。


加藤清正