愛知じゃのうて愛媛じゃよ。
此度は、愛媛県は松山城へ出陣!!
まずは風光明媚な現存天守を拝むが良い。
築城のきっかけを作ったは
秀吉家臣、賤ヶ岳七本槍の一人
加藤嘉明
関ヶ原の戦いの後、二十万石にてここを治め
加藤嘉明が松山と命名せし土地であるそうじゃ。
秀吉家臣も立派に出世したもんじゃ
大儀である。
その後、加藤嘉明は福島正則が広島から改易されると加藤嘉明は家康の命により広島に一旦赴く、その間も、松山の町づくりは加藤嘉明指示のもと続き、松山城が完成しいよいよ。入城かと思いきや、なんと会津の蒲生氏と国替の命が下る。
我が義理の息子、蒲生氏郷の孫、蒲生忠知(がもううじさと)が松山にやって来る。
蒲生忠知はさらに二の丸などを発展させるが、参勤交代の道中、京都にて病に倒れる。
なんと蒲生氏はここで断絶。
次に派遣されしは、
松平定行
徳川家康の甥御じゃ
その後、松山藩は明治まで続き
秋山好古、秋山真之、正岡子規などの近代日本に偉人を排出する事なる。